DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

黒澤いづみ『人間に向いてない』B、マーティン・ラッセル『迷宮へ行った男』B

【最近読んだ本】

黒澤いづみ『人間に向いてない』(講談社文庫、2020年、単行本2018年)B

 カフカの『変身』において謎なのは、虫に変貌したグレゴール・ザムザよりも、むしろ家族の反応のほうではないか――という話を読んだことがある。それに対して考えたのが、実は虫になったのはザムザだけではなく、あれは社会でひそかに進行している病気だったのではないかということだったのだが、もしかしたら作者も同じことを考えたのではなかろうか。

 正直、全体に陰鬱で、あまり楽しく読める作品ではない。引きこもりの息子がある日巨大な芋虫に変貌するというのは、いくらなんでも寓意としてわかりやすすぎるし、引きこもりをテーマにしたことで社会派になっているのが、世間的な評価を高めているところはあるだろう。異形となってなおも息子を愛そうとする母、冷たく切り捨てようとする父の対比など、図式的でもある。

 デビュー作によくある、そしてベテランになると消えていってしまうことなのだが、話は色々なジャンルを行ったり来たりしながら進んでいく。ホラーっぽく始まったあと、SF、不条理、ミステリ、恋愛小説、家族小説とさまざまに変遷する。その中で、変身した子どもを持つ親たちのサークルのサスペンスめいた人間関係、そこで出会った他の異形の娘と息子の交流など、先が気になる展開もあったが、いずれも十分に深められないうちに終わってしまったようである。それが最後に母の愛の物語として悪夢のようなハッピーエンドに収斂してしまうのは、ややはぐらかされた感じがある。

 色々と発展させられそうなまま終わってしまったアイデアも随所にあり、スピンオフとかコミカライズとかで、世界観が深められたら面白いのではないかと思ったが、そういう動きはないらしいのがもったいないと思う。

 

マーティン・ラッセル『迷宮へ行った男』(竹内佳子訳、角川文庫、1981年、原著1977年)B

 ある日突然、周囲の人間が、自分のことを知らない人間だと言い出す、しかも嘘はついていないらしい――という、大好きなシチュエーションである。こういうテーマで一番有名なのはフィリップ・K・ディックの『流れよわが涙、と警官は言った』であろうし、他にも『ウルトラセブン』の「あなたはだぁれ?」や、筒井康隆の『緑魔の町』などいくつかあったが、特定のジャンルとして名前がついていないので、なかなか探しにくいところがある。

 作者はまったく訳されていないがベテランらしく、進め方もうまい。自分にいったい何が起こっているのか主人公が探ろうとするうちに、家族、隣人、職場の同僚、昔の知人――とだんだん行動の輪が広がっていって、その誰もがことごとく、自分のことを知らないと主張するので、いったいこの状況をうまく説明できる理屈は何がありえるのか、ということを考えながら読まされ、退屈しない。

 あまり読まれることもなさそうなので、備忘録もかねてネタバレしておくと、

(以下ネタバレ)

 東西冷戦の行方の鍵を握る科学者が、東側へ偽装亡命するスパイ計画がひそかに進行していた。しかしその科学者が事故であっけなく死んでしまう。幸い東側はその科学者の顔をよく知らないので、背格好の似たある男が身代わりとして選ばれる。彼はその科学者になりきるべく訓練を受けるうちに、自分がその科学者その人であると思い込むようになって、ある日「自分の家」に帰ってしまったのが、本作の主人公――という、冷戦下のスパイ小説と洗脳ネタをあわせたトリッキーな真相である。読んだときは、押見修造の『ぼくは麻理のなか』じゃないか! と思った。

 個人的に洗脳ものも大好きで、いずれも人の心など少し条件付けすればいかようにも変化させられてしまうといわんばかりのストーリーで、やや嗜虐的な楽しみがある。最近は洗脳というのもそこまで単純なものではないという認識が一般的になってしまい、あまり書かれなくなってしまったのが残念である。

 話の大部分が真相をさぐる主人公の右往左往であり、作品全体の印象はやや地味であるが、読者が思いつく可能性をつぶしていく手際が良くて読みやすいのと、たどりついた真相もまた妄想かもしれないというさらにひねったオチも含めて佳品であり、他の作品も読んでみたくなる。アマゾンの洋書で見るとやや高いのでなかなか手が出せそうにないが……

竹原漢字『気ままで可愛い病弱彼女の構い方』C、蘇部健一『ふつうの学校②』A

【最近読んだ本】

竹原漢字『気ままで可愛い病弱彼女の構い方』(富士見ファンタジア文庫、2016年)C

 内容はタイトルの通りで、保健室登校の病弱な女の子と彼女の世話係になった「僕」が校内の謎に挑む日常系ミステリ――なのだが、とにかく「僕」の語りが読みにくい。

会長、と皆に呼ばれている女子である。僕の隣に座っているのも、彼女が「会長」という名字だからだ。嘘である。

とか、

一ページ目を開いた。

(2行略)

泊さんの小さな身体が、光を放ち始める。

(以下9行略)

――世界の様相が、一変した。

とかいうようなことは、当然起きたりしない。

 のような面白くもないボケが随所にあっていちいち癇に障るし、「物語の結末を知る者(マスター・オブ・ブックエンド)」や「底なし沼のお人好し(スポイト・スポイラー)」のような(主人公が勝手につけているだけの)二つ名、それらの語りへのメタ的なツッコミ、明らかに好意を寄せているヒロインに鈍感を装う主人公、あちこちにみられる言葉遊び――と、それぞれの要素は西尾維新のフォロワーという感じなのだが、しかし西尾は圧倒的にストレスなく読みやすいのにこの違いは何なのだろうか。

 アマゾンで見る限りこの文体はやはりかなり不評だったらしく、2巻目は多少抑え目にしたもののやはり不評、その後の作品はないらしい。文章自体はうまいし、真相もただの勘違いというオチだったりと多少ひねっているので、文体さえどうにかすれば何とか……と思っていたので少々もったいない気もする。

 

蘇部健一『ふつうの学校②』(講談社青い鳥文庫、2004年)A

 蘇部健一の作品を久しぶりに読んだが、これは面白かった。家庭訪問や遠足など、最初はとりとめのないお話の連続に見える。しかし、日常の些細なエピソードを通して、さえないように見えて実は鋭い(かもしれない)教師や、頭はいいがどこかでツメが甘いクラスメイトなど、それぞれのキャラを印象付けて、最後のブラジャー盗難事件での彼らの行動に説得力をもたせていることが、読み終えてみるとわかる。

 ミステリ風とはいっても多くはささいな悪戯に近いようなものばかりだが、一枚の古い写真から祖母の初恋の人を探し出すような本格的な人探しのエピソードもあったりして、意外に密度の濃い作品集になっている。ただまあ、メインキャラの型破りな教師が、あまりに悪ガキじみているのはちょっと今読むのはきついものがあるかな……

  浅暮三文『石の中の蜘蛛』B、ドン・ペンドルトン『眼と眼が』C

【最近読んだ本】

浅暮三文『石の中の蜘蛛』(集英社文庫、2005年、単行本2002年)B

 浅暮三文の本を久しぶりに読んだ。彼の作品の多くは奇想小説に分類されると思うが、アイデアは奇抜であっても小説自体はスタンダードに徹しているというところに特徴がある。本作も、異常聴覚をもつ男が主人公であるものの、小説の枠組み自体は、ロス・マクドナルドばりの、失踪者を探すハードボイルド小説である(というのは山田正紀が解説で触れている)。

 実際、異常聴覚を駆使して、元いた住人の知られざる生活がよみがえってくる――たとえば床のへこみ具合を音で感知して、ベッドを置いていたところや住人が毎晩歩き回っていたところを読み取る――あたりは、都市小説において、見知らぬ他人の生が浮かび上がる瞬間と同じものである。ハードボイルドがそうであるように、本作もまた都市小説の系譜に置かれるべきものだろう。安部公房山川方夫など、非現実を持ち込むことで都市に暮らす人の生を描いた作家のグループに入れられるかもしれない。やや古典的とも言える。

 彼の聴覚によって捉えられる世界を、比喩を駆使して表現していて、やや読むのが大変であるが、だんだん本当にありそうに思えてくる。しかし最後、その一部は彼の妄想に過ぎなかったことが明らかになり、その瞬間、彼には孤独を与え、読者は現実に戻される。帰り道まで用意されている異世界旅行は、デビュー作の頃から変わっていない。

 

 ドン・ペンドルトン『眼と眼が』(石田善彦訳、ハヤカワ文庫、1989年、原著1986年)C

 登場人物紹介によると主人公が「超能力探偵」ということで、SFとミステリの融合!と思って読んだら、SはスピリチュアルのSだった。超能力者とは人類の進化した形であり、やがて人類は物質文明を脱し、肉体を捨てて高次元体にいたる――という、昔なつかしいニューエイジのビジョンが最初から最後まで能天気に描かれる。その楽観ぶりは、田口ランディの『コンセント』三部作を読んだときのようなめまいがあった。当時はそれなりに説得力を持ちえたのかもしれないが、さすがに今読むときつい。本作は全6巻の2巻目で、3巻以降は訳されなかったようだが、それも仕方ない。

豊島ミホ『夜の朝顔』B、ドナルド・E・ウエストレーク『悪党たちのジャムセッション』A

【最近読んだ本】

豊島ミホ『夜の朝顔』(集英社文庫、2009年、単行本2006年)B

 ある地方都市(作者の出身を考えると秋田だろうか)に住む女の子・センリを主人公に、小学1年生から6年生までに出会ったいくつかの小さな「事件」を描く連作短編集。

 「事件」というのは、多くは人間の悪意に触れる瞬間に絞られている。それは親戚だったり、先生だったり、親だったり、友達だったり、はたまたセンリ自身だったりするが、それらを通して、センリのやや大人びた視点から、子どもの社会の複雑さといったものが現れてきて、なんとなく自分にも覚えがある気にさせられる。

 体の弱い妹への苛立ち、クラスのややニブい子への意地悪、バレンタインを前に牽制しあう女の子たちの駆け引きなど、マンガでは軽く扱われるようなネタを別の側面から見直すようなコンセプトのものが多いが、中で印象に残ったのは、「5月の虫歯」だった。

 虫歯の治療のために隣町の歯医者に行ったセンリが、公園でひとりの女の子に会う。彼女は、母親がフィリピンの歌手だと言い、東京に憧れを抱き、将来は歌手になると語る。そんな彼女にセンリは惹かれるが、別の子どもから彼女が貧乏な家の嘘つきだと教えられる。それを知ったうえで知らないふりをして女の子に会い続けるが、センリの両親は彼女が虐待に遭っていることを見抜いて、児童相談所へ連絡し、センリの前から去る。

 フィリピン・よその学校・東京という「異文化」、そこで繰り広げられる複雑な友人関係、それらを飲み込んでいく大人の社会のルールといった多層性が、センリの目を通して鮮烈に現れてくる。

 一貫してセンリの視点から世界を描いているので、ことの真相やその後どうなったのかがわからないなど、必ずしもすっきりしない終わり方の話が多い。しかしそのもやもやをとっかかりとして、読者自身の子ども時代に出会った事件にもつい思いを馳せてしまう、(必ずしも良い記憶ではないものの)ノスタルジーにあふれる佳品である。

 

ドナルド・E・ウエストレーク『悪党たちのジャムセッション』(沢川進訳、角川文庫、1983年、原著1977年)A

 この作家を初めて読んだが、こんなに面白いとは知らなかった。泥棒・ドートマンダーとその一味のドタバタ劇を描いたシリーズの第四作だそうで、保険金詐欺を目的とした名画の偽装盗難が本作のテーマである。

 考えてみればピカレスクというものは厄介で、あまりうまくいかないとつまらないし、うまくいきすぎても悪の礼賛になって良くないわけで、そのバランスが難しい。たとえばルパン三世は盗む相手を悪人にしたり盗みをロマンスに置き換えたりして「正当化」しているが、ドートマンダーシリーズでは、全員小悪党でそんなものは望みようがない。その代わり、盗み自体はうまくいくのだが、その後二転三転してお金は手に入らない、といったあたりでバランスをとっているようである。

 この盗みの成功 → 思わぬアクシデントで窮地に → 持ち前の頭脳でなんとか切り抜ける → 再び窮地に、という構造がミクロなエピソードからマクロな物語まで全体を支配しており、このテンポがすごくうまくて、映像まで目に浮かぶ。映画化していないのが不思議なくらいである。

 惜しむらくはシリーズものなのでどうせメインキャラは死なないんだろうということがわかっていることで……シリーズを読んでいく内に何か変化があるのか、これから読んでいきたい。

太田忠司『僕の殺人』B、ジェイ・ベネット『殺し屋によろしく』B

【最近読んだ本】

太田忠司『僕の殺人』(講談社文庫、1993年、単行本1990年)B

 15歳の少年が、10年前の両親の死の謎、そしてその事件で失われた彼自身の記憶の秘密を探っていく。

 青春ミステリ――と呼ぶには、あまりに残酷である。青春ミステリにおいては普通、事件とは通過儀礼であり、時に痛みを伴いつつも、それを経て主人公はアイデンティティを確立させていくものと期待する。

 だが、このミステリにおいては、謎が解き明かされるにつれて、少年は自己のよりどころを次々に無くしていく。アイデンティティは崩壊に向かっていくのだ。そしてすべてが明かされたとき、何もかもを失った彼は、彼とは異なるが深い苦悩をいだいていた人がそばにいたことを知り、束の間の安らぎを得る。

 彼はこのあと現実を受け入れ、自己を確立し、明るい未来を築いていくのだろうか? とてもそうは思えない。彼を取り巻く大人たちは、いずれも何かを得ようとして、何も得ることなく挫折し、死を迎える。それは少年の未来をも暗示するようである。

 人は、人生を棒に振ることがある――ということを初めて教えてくれたのは、三島由紀夫の諸短編だった。三島の場合はそれが滅びの美学と密接に結びついていたが、この作品では世界はただ残酷なものとして現れる。

 

ジェイ・ベネット『殺し屋によろしく』(間山靖子訳、角川文庫、1980年、原著1976年)B

 これまた、陰鬱な青春ミステリである。主人公は大学生だが、やや幼く感じた。

「殺し屋によろしく」は、ある日突然身に覚えもなく殺し屋に狙われることになった青年の話、「黒いコートの秘密」は、ベトナム戦争で戦死した兄が遺した「なにか」をめぐる争いに弟が巻き込まれる話で、それぞれにミステリアスな出だしではある。

 しかしストーリーの大部分は、覚えもないのに巻き込まれた主人公の、わけがわからないままの彷徨が占めており、閉塞感がこちらにも移ってくる。誰にも悩みを打ち明けられないから、ガールフレンドと喧嘩してしまったりもして、ひどくいたたまれない。

 そして最後も、なにか救いがあるわけではない。いずれも自分が悪いわけでもないのに巻き込まれたことがわかり、しかも逃げることは許されない。ただ残酷な世界を受け入れ、そこから逃げずに、非情にさえなって生きていくことを決意する、という終わりである。

 昔読んだウィリアム・コーレットの『月の裏側』なども、同じ頃に書かれた、ミステリ仕立てで陰鬱な青春小説であった。これらの作品には恐らくベトナム戦争後の世相、実存主義の流行が背景にあるのだと思うが、それが『僕の殺人』にも通底するメッセージを発しているのは面白いところである。

芹澤準『郵便屋』B、エリック・ライト『神々がほほえむ夜』B

【最近読んだ本】

芹澤準『郵便屋』(角川ホラー文庫、1994年) B

 平凡な男のもとにある日、差出人不明の奇妙な手紙がとどく。その手紙にはたったひとこと、「ひとごろし」と書かれてあった。その不気味な手紙は、その日から彼のもとに毎日届くようになる。

 実際に確実に起こることといえば「それだけ」なのだが、男はそのくりかえしのうちに、少しずつ精神の平衡を崩し、狂っていく。手紙が届くという決まったイベントのリフレインのうちに、彼の会社や婚約者、そして中学時代に犯した罪といった背景が明らかになっていく構成はうまい。

 しかし裏表紙に「正統派ホラーの力作!」とあるが、実際のところどうか。「敵」は「ひとごろし」と書かれた手紙を毎日送るだけで(まあそれだけでも十分不気味ではあるが)、しかしそれ以外になにもしていないのである。彼を追いつめるのは自分自身なのだ。心に押しこめていた中学時代の罪、周囲の無責任な態度、あいついで起こる不審な死亡事故といったバラバラの出来事が、彼を確実に追いこんでいく。そこが、いくらでもあるようなストーカーものとは一線を画し、心理ホラーとして今でも読めるものになっている。結局、すべては妄想で、彼が考えなかった生身の犯人がどこかにいるのではないか? という可能性も、いくばくかは残されている(そもそもなぜ10年以上たって「復讐」が始まったのかは、明かされないままだったのではないか。プロローグがいつの何者だったのかもいまいち不明であったし)。

 読み終えて、本書の怖さを保証するのはやはり、手紙を毎日届けにくる郵便屋だろう。それなりの労力をかけて、毎日きまった時間に確実にくる、逃げられない存在という怖さは、なかなかメールでは再現できないのではないか。

 本書はカシュウ・タツミ、坂東眞砂子とともに、第一回ホラー小説大賞の佳作となった作品である。カシュウ・タツミともども、その後は作品がでなかったのが残念である。

 

エリック・ライト『神々がほほえむ夜』(大庭忠男訳、ハヤカワ文庫、1985年、原著1983年)B

 めずらしいカナダミステリ。トロントの大学教授がモントリオールでの学会の夜に殺害され、二つの都市を行き来した捜査が展開される。事件そのものより、イギリス系のトロントとフランス系のモントリオールの、言葉すらスムーズに通じない軋轢が捜査の障壁になるのが、この小説の趣向といえる。

 しかしむしろ楽しみどころは、面倒な捜査を押しつけられた、40代の窓際族警部の悲哀である。職場では出世の見込みがなく、家庭では嫉妬深い妻、反抗期の息子たち、厄介な舅に悩まされる日常に倦んでいる。警部は捜査にかこつけて、被害者の教え子だった女子大生にときめいてお茶をしてみたり、被害者のかよっていたスポーツクラブに入会してみたり、いっぽうで捜査に行きづまると家族に癒しをもとめたりする。えらく小市民的なキャラクターなのである。カッコいいとはお世辞にもいえないが、妙に憎めない人物で、少しは彼が報われるところが見たいという理由で、他のシリーズも読んでみたくなる。

 それにしても、地道な捜査によって浮かびあがる大学教授像は、なにか既視感があると思ったら、筒井康隆の『文学部唯野教授』である。唯一専門分野のコンラッドをしきりに引用して悦に入る教授もいれば、学生との浮気、教授同士の女の取り合い、学会出張を利用した夜の売春、あるいは大学外の趣味など、教授を戯画的に描くと、だいたい同じようになるものらしい。 

 社会派といえなくもないが、ホームコメデイという雰囲気で、250ページ程度で短めにまとまっており、読みやすい佳品である。

森村誠一『凶学の巣』C、東野圭吾『宿命』B

【最近読んだ本】

森村誠一『凶学の巣』(新潮文庫1984年、単行本1981年) C

 校内暴力に悩まされる中学校で殺人事件が起こり、暴力グループのリーダーが疑われる。しかし彼は皮肉にも、その時間はある教師の妻を強姦していたという「アリバイ」があった。彼が「教師の家に遊びに行った」とぼかしてアリバイを主張し、教師夫婦は強姦の事実を恥として少年がきたこと自体を否定したため、少年の容疑はとけず、事件は混迷する。

 社会派推理として、話はとめどもなく広がり、教師と生徒だけでなく、その家族や周囲の大人たち、10年以上前に起こった殺人事件まで巻き込んで、緻密な物語が展開される。しかし物語は偏見と飛躍の連続で、読んでいて不快になる。登場人物のキャラクターや行動が、たとえば「気の優しい善良な性格であるが、やや肥満な体質が災いして、無気力なところがある」などと、当時の通念で規定されて、それが強固に物語の進行を支配しているのである。この強引さのために、中編程度の長さでおさまっているともいえるのだが。

 偏見の最たるものは、子ども時代の絵から、ある人物が幼少期に犯した犯罪をつきとめ、さらには犯人逮捕につなげるという、児童心理学の無理な援用だろう。「小さいマルを多数集中して描く子は盗癖があるか、所有欲が強い」「過保護の子は手を描かないようになる」などといった知見が引かれているが、今の目でみるとさすがに強引である。参考にしたのは久保貞次郎編『色彩の心理』とのことだが、どうにも意外な犯人を強引に明かすための小道具程度の扱いに思えた。事件が解決し、校内暴力が去った後は、学歴偏重主義に毒されていったというオチも、取ってつけたようである。

 もう一編はとても読む気にならなかったのでパス。

 

東野圭吾『宿命』(講談社ノベルス、1989年) B

 医師への夢破れて刑事になった男が、ある事件の捜査で再会したのは、子どもの頃に一度も勝てなかった「宿敵」だった。彼はいまや男が夢みたエリート医師になり、しかも自分のかつての恋人を妻としていた。夫を理解できないことを悩んでいた彼女は、かつての恋人との再会をきっかけに再びの恋に目覚め、男はかつてのライバルを容疑者と目して独りで捜査を進めていく。

 メロドラマ的な設定だが、恋愛ものというより心理サスペンスとして一気に読ませる。ただ、読んでいるあいだは3人の関係の進展が気になってしまって、殺人事件そのものはあまり興味がわかないのはご愛敬である。

(以下ネタバレ)

 「宿敵」の男が、最初はすべてを操る悪の天才のような顔で現れるのが、終わってみると、思わせぶりな割に実はほとんど何もわかっていなかったことがわかる。カタストロフを期待して読んでいた身には、穏当ではあるがやや腰砕けに終わる印象だった。

 作者自信の「最後の一行」は、直感的にはわかりにくかった。たしかに双子だったということで、同じ脳外科の医師を志したことや同じ女性に恋したことも説明できて面白いとは思う。しかし双子というのは先に生まれた方が弟になるという話もあり、先に生まれたのが「勝ち」といえるかどうかは疑問が残る。それに「誕生日が同じ」というのは、小学生には割と重要な事実であると思う。当時それに気づかずじまいだったというのは不自然なのではないか。

 真相はいきなりSF風で戸惑ったが、『宿命』の刊行は1990年、『アルジャーノンに花束を』の邦訳改訂版が1989年。アイデアへの影響関係はこの辺かもしれない。