DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

内海隆一郎『波多町』B、秋田禎信『愛と哀しみのエスパーマン』B

【最近読んだ本】

内海隆一郎『波多町(なみだまち)』(集英社文庫、1997年、単行本1992年)B

 変な小説である。平凡な男がある町を訪れ、町の住人の策略で帰れなくなるという、カフカ的というか、個人的には眉村卓を彷彿とさせるはじまりで、好きなシチュエーションである。なのに面白くないのだ。

 これは明らかにカフカ眉村卓ジェネリックではありえない。読んでいると、舞台の町がゴミの埋め立て地の上にあって植物が育たないなどとへんに社会派なことを言い出すし、最後のほうでは主人公が町の住人のひとりとの不倫に発展したりする。あまつさえ、亡き父に人生を縛られているというのがよろしくない。主人公の亡父はバラの栽培に熱心で、彼が遺した珍しい品種の株がこの町でも育てられそうだということで、息子の彼がなかば軟禁状態で協力をたのまれる。すべてが過去にがんじがらめにされたような、息苦しい話なのである。

 カフカ眉村卓も、こういったことは描かなかったはずだ。彼らの物語であれば、外から隔絶されているところに舞台が置かれる。主人公はそれまでの人生と関係のない「第二の人生」を生きつつ、決して深入りせずに脱出を試みつづける。それが逃避願望を満たしてくれるところが魅力だったのだということが、正反対の『波多町』を読むとよくわかる。

 しかし内海隆一郎は人情ものの小説が多い作家ということで、いったいこの話にどうハートウォーミングなオチをつけるのかと思ったら、拉致同然につれてこられたこの町での生活を自分の意志で選び、残してきた家族は実は浮気をしていて浮気相手と一緒になってハッピーエンド、という呆然とするような結末である。いまのところこの町は彼をバラの栽培のために必要としてくれているからいいようなものの、この先どうする気でいるのか。これに「不可解と微笑みに満ちた長編小説」などと紹介文を書いた人の頭がいちばんの不可解ではあるまいか。

 

秋田禎信『愛と哀しみのエスパーマン』(富士見ファンタジア文庫、2005年)B

 さきごろ2期までやったオーフェンのアニメがあまりにつまらなかったので、原作を読み返したくなったのだが、本はすべて実家にあって、コロナ禍ではいつ帰れるかもわからない――というわけで、読んでいなかったこれを発掘して読んだ。

 なんということもない話である。気分が落ちこんでいるときだけ超能力を使える主人公というアイデアは特に深められないで終わるし、彼をツッコミ役にして傍若無人に暴れまわるメインキャラたちも(構図的にはらんま1/2に近いのだろうか)、それぞれに複雑な背景をもってはいるものの、ストーリーを通してたいして変化するわけでもない。ただ秋田禎信の異様な文章力によって、笑えるものとなっている。

 こういうのは、別役実のエッセイと同様、おもしろさが説明して伝わるわけではないのが残念である。

神坂次郎『元禄御畳奉行の日記』A、スコット・ボーグ『消された私』B+

【最近読んだ本】

神坂次郎『元禄御畳奉行の日記』(中公新書1984年)A

 これはおもしろい。日本史上でも有数の、町人文化の栄えた元禄の世……と、はなやかな江戸の姿を語りおこし、そういったイメージとは異なる「もうひとつの元禄」を、とある尾張藩士の遺した『鸚鵡籠中記』なる日記から織りあげてみせる。

 書いたのは朝日文左衛門重章(1674~1718)という男。特にすぐれた能力をもっていたわけではないが、異様に筆まめであり、18歳のときから死の前年まで、26年8か月におよぶ日記を書いた。野次馬根性が旺盛で、自分のことだけでなく、社会のさまざまな事件の風聞を世に遺した。その日記は彼の死後、名古屋城の藩庫におさめられ、ながらく限られた者たちの間でのみ閲覧されていた。公開されたのは戦後になってからで、とくにこの著書での紹介によって世に知られることになった。

 これは原本が読みたくなる――というのは、神坂次郎の興味がどうしても「男と女」というところに行くので、紹介する世間の事件についてもそういったものの紹介が多くなるのである。怪盗や妖怪の事件など、原文を提示しているだけでろくに説明していないものも結構あって、読む人によってかなり読み味が変わる。ある男の腹から急に声がしだして当人と喧嘩になったとか、焼味噌を恐れる男が無理をして食べようとしたら持った手が腐りだして死んでしまったとか、文左衛門自身も庭に髪の毛のようなものが生えてきて気味が悪いとか、そういったもののほうが個人的には読みたいのだが、これは原文にあたるほかはなさそうである。  

 しかし読んでいてい思うのは本当に人がよく死ぬということで、やはり日常的に刃物をもっているのは危ない。嫁と姑が仲が悪いといって自殺したり、酔った勢いで恨みもない友人を切りつけて死なせてしまったり、現代でも刃物さえあればこういった事件はよく起こっていたのかもしれない。

 

スコット・ボーグ『消された私』(ミステリアス・プレス文庫、1996年、原著1995年)B+

 ネット上でまったく評価がみつからないので期待しないで読みはじめたが、これが意外におもしろかった。文句なく傑作とはいいがたいが、広く読まれてほしい作品である。

 ある日突然、自分そっくりの顔の男に殺されかけ、なんとか逆襲して相手を殺したが、家に帰ってみると自分が殺されたというニュースがかけめぐっている――というカフカめいた発端から、いったい何が起こっているのかをさぐって560ページの彷徨がつづく。ひとつ謎が明かされてもあらたな謎が生みだされて、やや厭世的な主人公のおかげで全体に暗い雰囲気であるが、退屈せずに読める。

 おもしろかったのに、作者はこの一作で沈黙してしまったようである。 

(以下ネタバレ)

 誰かを殺してその人になりかわるという話は、『太陽がいっぱい』をはじめたくさんあるが、犯人が殺そうとして返り討ちにあって殺されてしまうというのが、本作のアイデアである。主人公はわけがわからないまま、自分という人間の存在を乗っとるはずだった男の緻密な計画を逆にたどっていくことになる。そこでもうひとつ本作のアイデアとして、主人公が過去に不幸な目に遭って厭世的になっているせいで、犯人になりかわることに魅力を感じてしまうということがある。奇妙な状況に放りこまれながら、それに安住したい気持ちも持ってしまうところが、本作を一種異様な雰囲気にしているところだろう。

 途中からアイデンティティをめぐる不条理めいた話になるなど、やや強引なところもあるし、これで本当に警察に疑われないものかという疑念もあるのだが、主人公が場に適応しやすいなど意外にお調子者なところもあり、最後まで楽しんで読めた。もっと評価されてほしい作品である。

 それにしてもここまで計画しておいて肝心なところで返り討ちにあうなど、なんともしまらない犯人ではあった。

ラーメンズのコントにおける知的障害者差別について

 

 小林賢太郎は、過去のコントで不適切な言葉があったことを自ら認め、その後は「人を傷つけない笑い」を目指してきたと述べた。世間もそれを誠実な謝罪であると認める流れになっている。だが「人を傷つけない笑い」とは何なのか。

 前から気になっているのは、小林賢太郎ラーメンズ時代の差別的なネタを含むコントをどう考えているのかということである。

 個人的に特に気になっているのは、以下の「知的障害者と思われる人物」をネタにしたコントである。年代順に並べると、

  ドーデスという男(2000年)

  絵かき歌(2001年)

  器用で不器用な男と不器用で器用な男の物語(2001年)

  ネイノーさん(2001年)

  アトムより(2002年)

  バニーボーイ(2003年)

 あたりが挙げられるだろうか。

 いずれもyoutubeの公式チャンネルで視聴可能である。このうち「ドーデスという男」「絵かき歌」「ネイノーさん」「アトムより」は、知的障害があり社会生活を送るのが困難であるらしい男と、それを見つめる健常者の男のやりとりを演じるコントであり、「器用で不器用な男~」と「バニーボーイ」は、社会生活を送ってはいるもののコミュニケーションに支障をきたしている男と、それに手を焼きながら相手をする男のドタバタを演じるコントである。これらの他にも、「ホコサキさん」なども入るかもしれない。

 これらは「人を傷つけない笑い」に入るのかどうか。なぜそれが気になるのかといえば、実のところ私はこれらのコントがラーメンズの作品の中でも特に好きであり、今でも思い出したようにyoutubeで見るのだが、見るたびに、本当に笑っていて良いのか、という思いもあるのだ。

 たとえば「ネイノーさん」に関して、「こういう奴、見たことある」という趣旨のコメントを見かけたことがある。そもそも小林賢太郎のコント作品は、実際にいるような人を誇張して演じることでややブラックな笑いを生む作品が多くある(問題になった「ユダヤ人虐殺ごっこ」のコントも、もともとは「悪いノッポさん」という態で、不謹慎ネタを連発するというもので、そのせいで過度に露悪的になってしまったという擁護もあった)。これは、それだけ小林賢太郎片桐仁による知的障害者の演技が巧みということでもあるが、しかし彼らの演じる知的障害者像が現実の人間に投影され、彼らのコントから得られる時にシュールな笑いもまたその人に投影されるとき、それは「人を傷つけない笑い」と言えるのかどうか。他のコントでも、いい気になって笑っていたら、「これはお前そのものだ」と言われる危険を常に孕んでいるという恐怖を、考えたことがあるのだろうか。

 小林賢太郎のコントは知的障害者をバカにするのではなく、健常者と対等な人間として描いている、という評価も見たことがある。だが、「ドーデスという男」は、片桐演じるドーデスの妹と付き合いたい小林(役名不明、以下同じ)が、邪魔なドーデスを謀殺しようとするサスペンスであり、「絵かき歌」は、知的障害者らしき片桐の稼いだ金を小林がこっそり盗もうとするシーンが存在する。とはいえ描かれ方がだんだんマイルドになっていっているのは確かで、「ネイノーさん」では、片桐がネイノーさんをからかって遊ぶようなところはあるが、悪意は見えないし、「アトムより」では、芸術について二人で対等な議論のようなことまでするようになる。それが「バニーボーイ」では一転、ただの変人とも、コミュニケーション障害とも見える小林に翻弄された片桐が、激昂のあまり小林を投げ飛ばしたり「死ねばいいのに」と言い放ったりする。コントとしてはテンポが良くて言葉遊びの要素もあって好きなのだが、しかし本当に笑って見ていて良いのか、ここで演じられているのは深刻な事態なのではないか、という疑念もわく。

 こういったコント作品について今現在どう考えているのか、小林自身が書いている文章はまだ見たことがない(最近の著作は確認していないが)。「人を傷つけない笑い」を目指しているというとき、これらのラーメンズ時代の作品が含まれるのかははっきりしないが、少なくとも現在もyoutubeで自ら公開している以上、「人を傷つけない笑い」の範疇であると考えている可能性は高いのではないか。

 今回の炎上は、そういった点も議論の対象になるのではないかと思ったのだが、実際はそうはならず、過去の「ユダヤ人虐殺ごっこ」というネタへの反省と、現在は「人を傷つけない笑い」を目指しているという漠然とした言葉が語られただけだった。世間はそれを誠実な謝罪ととらえ、それどころかこれをきっかけにラーメンズのコントが再評価されそうな動きさえ見られる。ラーメンズのコントには、知的障害者差別のみならず、女性差別的なものや、外国人をステレオタイプ的に演じるコントもあり、今でも公開されている。それらを小林自身がどう考えているのか、ファンはどう捉えるべきなのか、笑いに真摯に向き合ってきたと評価されてきただけに、いつか答えてほしいと思う。

 

※私自身も認識が不十分なところがあると思いますので、事実誤認や不適切な表現があれば指摘していただきたいです。

北方謙三『不良の木』B、フレデリック・ポール『チェルノブイリ』B

【最近読んだ本】

北方謙三『不良の木』(光文社文庫、1994年、単行本1991年)B

 しがない私立探偵が、山奥で怪我した14歳の少年を偶然たすけたことから、少年とその親の確執をめぐるトラブルに巻きこまれる。淡々とした無駄のない文体、信条をつらぬくスタイルの語り手など、読んでる間は文句なくカッコいいし、策士として立ち回ろうとしつつうまくいかない少年が成長していく姿も良い。主人公に振り回されながらも、最後は自ら父に立ち向かおうとする彼は、どことなくシンジとゲンドウに重なるようなところもある。

 しかしハードボイルドというのは、たいてい主人公の視点から描かれるため、読者には行動の理由がわかるのだが、作中人物にはどうなのか。何しろ自分のルールに沿って依頼を受けたり受けなかったり、時に依頼を無視して勝手な行動をとり、しかもほとんどしゃべらないということでは、さぞ不気味なのではないだろうか。さりとて彼らは主人公に頼らざるをえない立場で、最終的に解決するものの、本当にこれで良いのかと毎度思ってしまう。

 

フレデリック・ポール『チェルノブイリ』(山本楡美子訳、講談社文庫、1989年、原著1987年)B

 チェルノブイリ原発事故を、アメリカ人SF作家のフレデリック・ポールが、当時グラスノスチの進行の中で公開された資料を駆使して書き上げた、500ページに及ぶノンフィクション・ノベルである。事故の進行はかなり事実に忠実なようだが、登場人物のドラマは作者の創作らしい。そのため、今読む価値は低いとは思うが、関係者とその家族のドラマを描いて末期ソ連の国民生活の史料のようになっているし、アメリカの冒険小説らしく、みんな最後は前向きに危機に立ち向かって読みやすい。とはいえ強健だった関係者たちが放射能障害に苦しみながら死んでいく姿は、みなユーモアを忘れずにふるまっているとはいえ凄惨である。

 印象的なのは、前書きでポールがしきりにゴルバチョフ下のソ連を絶賛していることで、アメリカ人の彼がソ連原発事故の小説を書いたのも、「自国に不利な情報をここまで公開することができるようになった!」という宣伝の意味が、おそらくある。そのあたり、御用作家のように見せつつ、作中では昔のソ連への郷愁や直らない旧弊さを語らせるような箇所もあり、老獪さを感じさせる。

ジェイムズ・サリス『黒いスズメバチ』B、リチャード・プレストン『ホット・ゾーン』B

【最近読んだ本】

ジェイムズ・サリス『黒いスズメバチ』(鈴木恵訳、ミステリアス・プレス文庫、1999年、原著1996年)B

 ニューオーリンズを舞台に、黒人の私立探偵を主人公としたハードボイルドという異色作。時代は60年代末で、人種差別が公然とまかり通る一方、それに対する反対運動も過激になっている時期であり、主人公もまたそれにいやおうなしに巻き込まれる。

 正直、描かれる事件自体はたいしたものではなく、それを通して時代や社会の雰囲気を描くことにこそ焦点がある。黒人であるがゆえに調査を妨害されるような目に遭っても、目の前でどれだけ理不尽な悲劇が起こっても、語り口はあくまで淡々としており、それこそがやりきれない諦念を感じさせる。

 これ自体はシリーズものの3作目で、他にも何作か訳されているようだが、全作を紹介されるには至らなかったようである。もともと60年代にはニューワールズなどで質の高いSF短篇を書いていたという話もあり、もっと紹介が望まれる。

 

リチャード・プレストン『ホット・ゾーン』(高見浩訳、小学館文庫、1999年、原著1994年)B

 本書はかつて日本でもベストセラーとなり、映画『感染列島』はじめパンデミックものに大きな影響を与え、最近になってコロナ禍により再び注目されている、致死率90%のエボラウイルスと人類の攻防を描いた傑作ノンフィクション……のはずだったが、実際のところ「人類」というより「アメリカとエボラの攻防」といったところである。

 作中で、エボラウイルス自体はアフリカですでに発見され、いくつもの村が全滅するほどの被害が出ているのだが、それについては歴史として触れられるのみ。本書ではアメリカ国内でエボラウイルスが発見され、それをいかに封じ込めるか、というところに主眼がある。アメリカ国民が読めば、自国の危機とそれをいかに回避したかという報告として読めるだろうが、他国の人間の立場からは、著者の興味はあくまで「自国に」エボラウイルスが入り込むかどうかしかないように見えてしまう。同じくアフリカの熱帯雨林で発見されたとみられるエイズウイルスとの対比など、単にエボラにとどまらない、人類とウイルスの歴史への視点など文明論的な考察も提示されるものの、やはりアメリカの読者が対象の本という印象はぬぐえない。

 と不満を抱いてしまうのは、個人的にパンデミック小説で好きなのは、序盤で誰も気づかない内にウイルスが社会の中でひそかに広まっていき、読者だけが気づいているのに何もできないまま悲劇が進行するという、読んでいて「あーあーあー」となるところなのだが、それが薄くてすぐに対策に移ってしまうのが期待外れだったということなのだが――まあ、ノンフィクションにそれを言っても仕方ないのかもしれない。

 それにしても、ウイルス小説といえばこういった致死率が高いウイルスが出てくるのが定番だったのに、実際に世界をひっくり返したのが、コロナウイルスのような「弱い」ウイルスであったというのは、ウィルス小説界としては痛恨事だったろうというのはよく言われる。今後のウイルス小説はどうなっていくのか、いまだに答えは出ていないように見える。コロナ禍、あるいはアフターコロナの世界で最初に「古典」を生み出すのは誰なのか……

桜木知沙子『真夜中の学生寮で』B、宮内勝典・高橋英利『日本社会がオウムを生んだ』B

【最近読んだ本】

桜木知沙子『真夜中の学生寮で』(キャラ文庫、2009年)B

 前半は良い。寮の一人部屋が怖くて独りで眠れない少年の奮闘という、他人にはくだらないが本人には切実な問題を描いて、良質な青春小説になっている。

 この少年が素直でけなげなキャラクターで、面白がってホラー映画を見せたりしてからかう友人たちの気持ちもわかるし、その中で彼を決して馬鹿にしないひとりの先輩の存在がクローズアップされてくる構成もよい。

 個人的には小学6年の修学旅行の夜、ある部屋の友人たちが怪談大会をやったら同室のひとりが泣き出してしまい、帰ったあともクラスを巻き込んで深刻なトラブルになってしまったことを思い出した。彼は最初から拒絶していたのに、学校の怪談ブームの中で本気で嫌がっている人間がいるなんて、その時の誰にも想像もつかなかったのだ。悩みというのはえてして、他人には全く理解できないものになることが多いのであって、それにどうやって向き合うのかは文学の重要なテーマである。

 ことほどさように前半はAクラスなのだが、惜しむらくは後半はふつうのBLになってしまうところで、こうなると後半も後日談も蛇足にすら思う。このあたり、BLというテンプレートの便利さと、ストーリーを拘束する不便さが出ているように思う。

 青春小説は「誰でもこんな悩みは理解できるでしょう」とばかりに恋愛ネタを描くことが多いが、こういう、他人には理解できないくらいくだらないが、本人にだけは切実な問題というものを、もっと扱ってほしいと思う。

 

宮内勝典・高橋英利『日本社会がオウムを生んだ』(河出書房新社、1999年)B

 高橋英利はオウム信者で幹部候補くらいまで行ったが、出家の時期が比較的遅かったせいか、サリン事件などには関与することはなく、連日の報道の中で教団に疑問を持ち脱退したという。

 その時の心境の変化をめぐり宮内がインタビューするのだが、大半はごく普通の、宗教や群衆心理の恐ろしさをお互いに確認するという会話が占める。そもそも高橋自身が、信州大学の院で測地天文学を専攻しているうちに現代科学に疑問を持ち、ニューエイジサイエンスやクリシュナムルティなどに傾倒した末、断言する形で「真理」を与えてくれる麻原と出会い信者になる――という、当時としては多分「普通」の知的彷徨を経ているので、あまり新奇なところは出てきそうにない。

 ただ、彼の場合は麻原よりも、直接勧誘した井上嘉浩に惹かれていたことを告白しているのは目を引く。井上が高橋に招かれアパートの部屋に入った瞬間、部屋の電球が二部屋とも切れてしまったなど、ユングフロイトを意識したようなエピソードもあり、麻原のみならず、幹部たちにもまた、信者だけにはとどまらない謎めいた部分があったことをうかがわせる。しかし高橋自身が教団で見た井上のことしか知らないせいで、彼についてはあまり深められないのがもったいない。

 そんなにも井上に傾倒した高橋がなぜ脱会できたのか? 宮内は彼が若い頃から文学作品に触れたことで人の心の闇に慣れていたのではないかと推測しているが、実際のところ、高橋が単に「熱しやすく冷めやすい」タイプなのではないかという気がした。天文学に惹かれて大学院まで進むがオウムに出会い院を中退までして出家し、そこまで入れ込んでも幹部たちの些細な発言をきっかけに疑問を持ち脱会し、この本では一生かけてオウム問題に向き合うような発言をしているがその後どうなったのかはわからないという風に、どれも長続きしていない。そうだとすれば、その飽きっぽさが彼を守ったともいえるのだ。事件の関与者にもそういう人間がいたのだとすれば、出家のタイミングがすべてを分けたわけで、運命の皮肉である。

 あと気になったのは、宮内によると92年の後半から、麻原の講話の内容の質が、元は「なかなかのもの」だったものが急激に落ちていくという(p.81)。宮内は教団の教義まで立ち入ってオウムについて考察しており、無視できない指摘だと思うのだが、これも指摘にとどまり、その時に何があったのかなど、追及されないのが残念である。

佐々木禎子『くくり姫』B、パトリシア・カーロン『ささやく壁』B

【最近読んだ本】

佐々木禎子『くくり姫』(ハルキ・ホラー文庫、2001年)B

 懐かしき世紀末小説、という印象である。幼いころから性的虐待を加えていた父を殺してしまった11歳の少女が、脳裏に響く菊理姫(くくりひめ)の予言に導かれたという謎の大学生の青年に連れられて、夢とも現実ともつかない不思議な旅に出る。

 この「つまらない日常を衝動的に破壊してあてのない旅に出る」という図式は、もちろんロードムービーとしてケルアックの昔からあるものだが、こういう旅の果ては終末の風景こそが妙にぴったりで、懐かしささえ感じてしまう。

 異端の日本神話、UFO、超能力、予言といった90年代的な要素をちりばめつつ、ただ頭の中の命令に従って殺戮と供儀の儀式を繰り返す青年と、彼に従いながらも平穏な安息の日々を求める少女、途中で加わるUFO好きで神がかり的な少年の織りなす心理ドラマは、不安定さをかかえたまま進んでいくために、その行く末が気になって最後まで読ませる力がある。ただ、こういう小説を読むうえでは、やはり「世紀末」の気分というものは不可欠だと思った。破滅の先にこそ希望があるという考え方への共感は、現在となっては難しい。

 

パトリシア・カーロン『ささやく壁』(富永和子訳、扶桑社ミステリー、1999年、原書1969年)B

 亡き富豪の妻・サラはある日突然の発作で倒れ、全身不随となる。しかし身体は動かせないものの、彼女の意識は明晰なままで、周りで何が起こっているかはわかっていた。ある日、自分の身辺で恐るべき殺人計画が進行していることを知った彼女は、なんとかできるようになった片目のまばたきだけを頼りに、なんとかそれを人に知らせようとするが……

 という、(主に主人公の状況が)息詰まるサスペンスである。これを読んだのは正直怖いもの見たさというべきか、全身不随で意識は明晰という絶望や焦燥、恐怖といった生理的な感覚がリアルに描かれていたらどうしようかという思いがあったのだが、そういった感覚的な描写は薄く、たとえばトランボの『ジョニーは戦場に行った』や三島由紀夫の「怪物」のようなものとはだいぶ異なる。あくまで「すでに真相を知っているのにどうにもできない」という状況をどう打開するかという、ゲーム的な興味が中心にあり、結末は希望をもたせるものでホッとする。

 読み終えた後にwikiで作者のページを見たところ、作者は実は重度の聴覚障害者であったことが、2002年の死後に明らかになったという。出版社とは手紙のみのやりとりで、インタビューも断っていたため、生前はその事実は全く知られていなかった。解説からみても、コミュニケーションがうまくいかないことによる悲劇を扱った作品が多いようで、聴覚障害への言及を避けながら、うまく読み物として成立させながら、作者が作品を通して訴えようとしていたものをうかがわせる。