DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

柳沢玄一郎『軍医戦記 生と死のニューギニア戦』A、柴田錬三郎『異説幕末伝』B

【最近読んだ本】

柳沢玄一郎『軍医戦記 生と死のニューギニア戦』(光人社NF文庫、2003年、単行本1979年)A

 軍医戦記――というから、野戦病院で働いた記録なのかと思ったら、工兵部隊として破竹の勢いのシンガポール攻略から一転して地獄のようなニューギニア戦まで参加して、そのつど負傷者がでたら治療にまわるという、よく生き延びられたというレベルの歴戦の勇士である。最後の方では、

「高級軍医、敵機がきました」

「あの爆音はね、ここに爆弾をおとす飛び方の音ではない。心配無用!」

 戦歴の勘だ。

「軍医といえば、後方の安全な場所で安穏としているものと思うだろう。だが、戦闘兵科部隊付軍医はそんなものではない。人一倍の体力と精神力、そして勘が必要なのだ。かずかずの死地にのぞんだ戦闘の体験がいうのだ。今ごろになって、こんなところに連れられてきた君たちが気の毒に思うよ」

 そういいながら、碁盤の上に、静かに、石をおいた。(pp.211-212)

 などと、やや格好をつけた、本書の内容を集約したような述懐がある。

 面白いのは、軍医であるからか妙に記録が詳細で、何日にどこにいて、他の部隊がどこへ行き、兵力は何人、というようなことが、地図もつけてこまごまと書いてある。かといって単調な記録の羅列におちいらず、シンガポール陥落時のイギリス兵の混乱や、現地の住民との交流、途中で小さなサルを拾ってずっと連れていたエピソードなど面白いし、山下奉文も少し登場して、一介の兵にまで気を配る好人物として描かれている。軍医としても、凄惨な治療風景もあれば、あわてて駆けつけたら顎がはずれただけだったという笑い話もあり、サービスも十分で、かなり書きなれているように見える。

 ただ、大局的な戦況は他の本を読まないとよくわからないところもあるし、イギリス軍の暴虐を批判するのに対して自軍への批判は甘いように思われる(敗色が濃くなると、だんだん現地人や非戦闘員とのかかわりが書かれなくなり、現地の畑から食物を獲得し、などとそっけなく済まされたりする)あたり、注意は必要そうである。また、地図があるのは良いが、地名の間違いが多い(一枚目の地図の「タルアン」は本文中では「クルアン」となっているし、ポート・モレスビーが本文中で「ポート・モスビレー」になっている箇所もあった(p.115))。

 とはいえ、山下奉文の独壇場として知られる戦場の、一介の部隊員からの貴重な記録であることは間違いないと思う。

 

柴田錬三郎『異説幕末伝』(講談社文庫、1998年、単行本1968年)B

 もとは『柴錬立川文庫 日本男子物語』として出たのを改題したもの。確かに日本男子物語だと手に取る人は少ないだろう。私だって敬遠する。

 連載した1967年の当時で70歳を確実に超えるというから、明治時代を実際に見てきたと言いたいのであろう老人・等々呂木神仙を語り手に、作者が幕末明治の反逆者の真実を拝聴する――という筋で、彰義隊、白虎隊、天狗党五稜郭桜田門天誅組など、時の権力に反乱を起こしてあえなく消えていった人々を題材に、歴史上賞賛されている者の裏面や、逆に貶められている者の内実といったものを明かしてみせる。

 しかしそう意外なことがあるわけではない。井伊直弼はすでに死ぬ気でいて、水戸藩士の襲撃も隠密の報告で知っており、彼らが襲い掛かったときはすでに服毒自殺していたのだ!などと言われても、ひねりすぎて面白くはない。等々呂木神仙も、別に実際に彼らの活躍を目の当たりにしたわけではなく、のちの歴史学の成果を踏まえたかのごとく、フカン的に歴史を語ってみせる。もちろん柴田錬三郎の名調子でわかりやすいものの、それ以上ではない。

 ただ、最近『青天を衝け』でにわかに存在を意識するようになった渋沢成一郎が、彰義隊の話で主人公格であったところは面白い。ここでの彼は、最初は彰義隊のリーダーとして、慶喜を擁して日光を拠点に政府への反逆を主張する。これは、江戸にとどまることにこだわる者たちの反対で挫折するが、彼はいちはやく脱隊して、榎本艦隊に加わって五稜郭に立てこもる。その際、混乱に乗じて大阪城から軍資金を持ちだし、五稜郭を脱出したあとは商売の資金にするなど、したたかな人間として描かれている。博徒たちとも独自のつながりがあり、資金を運ぶときはそのネットワークで無事に運びおおせるなど、成一郎本人はいちども負けを味わっていない。

 『青天を衝け』では、どうしても栄一に一歩遅れをとってついていくような描かれ方になってしまっているが、やや過大とはいえこうした描かれ方をみると、幕府のなかでの成一郎の存在の大きさについてもっと知りたくなってくる。

三好徹『政商伝』A、童門冬二『冬の火花 上田秋成とその妻』B

【最近読んだ本】

三好徹『政商伝』(講談社文庫、1996年、単行本1993年)A

 あまり知られていないが、三好徹は歴史小説の名手である。史料を丹念に読みこみ、自身の見解も交えながら、小説としても面白く仕上げてみせる。なにより、比較的短いのが良い。やはり小説として面白くしようとすると、フィクション部分をふくらませて不要に厚くなってしまうことが多いが、三好徹の場合はフィクション部分も史実に材を採って、無駄なく主人公の人柄を伝えようとしている。

 本書は明治期に政府とかかわりを持った商人たちが主人公という珍しい短編集で、三野村利左衛門、五代友厚岩崎弥太郎大倉喜八郎古河市兵衛、中野梧一といった面々。それぞれ小栗上野介高杉晋作坂本龍馬孫文渋沢栄一榎本武揚といった歴史上の偉人たちとのかかわりから導入されるので、時代背景も理解できて読みやすい。

 ただやはり短編集なので、生涯の一時期にスポットを当てるというものが多い。ちょうど『青天を衝け』に三野村利左衛門が曲者っぽく出てきたので読んでみたのだが、主に幕末の小栗とのかかわりが多く描かれて、その後に渋沢とどう関わるかはよくわからなかった。レファレンスとしては向かないが、入門としては最適な作家であると思う。

 

童門冬二『冬の火花 上田秋成とその妻』(講談社文庫、1998年(書き下ろし))B

 上田秋成が寛政6年(1794年)、60歳のときに、30年以上連れ添った妻のたまと京都の東山に小庵に移り住んだ頃を描いた小説なのだが、読んでみると、これは江戸時代の歴史小説というより、昭和の家庭小説である。さしずめ、定年を迎えてずっと家にいるようになった夫と、従順についてきたのを突然反旗を翻した妻、といったところ。普通ならこんな話は最初から読まないのだが、上田秋成というガジェットをもってまんまと読まされた感がある。

 そんな風だから、読み始めてそうそう、転居するなり妻は、部屋を真ん中で二つに仕切って、今度からは自分のことは自分でやってください、と宣言する。そうして、あなたは私のことを全然わかっていない、と言って泣き出す。秋成は秋成で、見た目は不機嫌にむっつりしているが、内心はおろおろしている。

 そんな二人を、近所の友人よろしく当時の名だたる文人たちが訪れる。秋成は、自分を訪れた若者に、こいつは自分にも本居宣長にもいい顔をしている、と怒りを覚えたり、伴蒿蹊の『近世畸人伝』に自分も入れてほしくて悩んだりと、俗っぽいところを見せる。そんなこんなで、多少の波乱を含みつつも、夫婦の日々は続いていく。

 そんな家庭小説的なエピソードを織り交ぜて、自然に秋成の生涯が頭に入ってくるあたりはさすがである。最後は妻との死別で終わって、タイトルもあいまって寂しさが残る。

 巻末には童門冬二の著作リストが載っていて便利――と思ったら、もはや98年の著作リストなど、作品数を考えるとまったく役には立たないのであった。

三好徹『幕末水滸伝』B、林青梧『足利尊氏(上・下)』A

【最近読んだ本】

三好徹『幕末水滸伝』(光文社文庫、2001年、単行本1998年)B

 史伝小説の多い三好徹の中では珍しく、架空の剣士・香月源四郎が主人公。幕末の江戸で剣の道を追究する彼を狂言回しに、福沢諭吉小栗上野介勝海舟清河八郎中村半次郎山岡鉄舟坂本龍馬今井信郎などなど、維新のそうそうたる面々が現れては消えていく。

 大河ドラマの主人公のごとく、有名人がことごどとく源四郎に惚れこんでなにかとかかわってくるのだが、なにしろ源四郎自身は歴史には名を残さないことになっているから、彼らに仕官の道をすすめられても全部ことわってしまう。読んでいる側としてはもどかしいところである。それに、連載したときに明確な続きものではなかったのか、長州征伐のときに使者となった勝海舟の用心棒になったり、勝海舟渋沢栄一らとパリに行くようにすすめられてその気になったりするものの、次の話ではなにごともなかったかのようになっていて、ストーリーもよくわからない。

 とはいえ、激動の時代の中で純粋に剣の道を究める源四郎はそれなりにさまになっている。最後は彰義隊に参加して行方不明となるが、どうせなら士族反乱あたりまで生き残ってほしかったものである。

 

林青梧『足利尊氏(上・下)』(人物文庫、1997年、単行本1984年)A

 ちかごろ話題になった『逃げ上手の若君』は、北条側に比して足利尊氏らがキャラとして面白いものになりそうもなく期待はずれで、なにか面白いものはないかと思って手に取った。吉川英治の『私本太平記』は、楠木正成の死(1336年)をもって実質的に終わっていたのが不満であったが、本作では正成は下巻の冒頭であっさり死に、その後の新田義貞らの戦いを経て、足利直義の死(1352年)あたりまでが詳しく描かれているのが素晴らしい。敵味方が入り乱れる興亡はとてもわかりやすいとは言えないが、後醍醐帝を尊治と呼び、天皇といえども拙劣な作戦に対しては「愚か」と切って捨ててみせるあたり、天皇どころか『三国志』では後漢献帝にも敬語をつかった吉川英治とはひとあじ違う。尊氏たちの背後で南北朝の実質的なプロモーターとして北畠親房夢窓疎石があらわれ、彼らの道具として宗教勢力が暗躍するところも、北方謙三とはまた違った形の南北朝を見せてくれる。

 作者はどうも敗者のほうに思い入れがあるらしく、勝者も敗者に転じるとがぜん生き生きしてくる。高い志をもちながら尊氏に翻弄されてつまらない死に方をするなどさんざんな描かれ方の新田義貞をはじめ、大塔宮、後醍醐天皇高師直足利直義など、事態が手に負えなくなってなすすべもなく死に追いやられていく段になると、サディスティックなまでに執拗に描かれ、それが本書を魅力的なものにしているように思われる。彼らにくらべて楠木正成はあまり触れられないのだが、これに先行する『南北朝の疑惑 楠木合戦注文』に書かれているのだろうか? 彼らにくらべると楠木正行南北朝の対立を冷ややかに見る冷徹なインテリとして、終盤に北畠親房をも手玉に取る存在感をあらわしてきて面白い。

 とはいえ足利尊氏は本書でも善人であり、周りが自分に何を期待しているかを察知する能力にたけていて、それゆえに心ならずも反乱に向かうといったところ。やや単純な性格の直義ともども、定型は脱していない。義詮や直冬も活躍の場がなくて中途半端であり、全体に足利一族は南北朝狂言回しに過ぎず、妙に精彩を欠く。直義の死後はやや駆け足になってしまい、楠木正儀ら次世代の戦いも描いてもらいたかったものであるが、予定はあったのかどうか、今となってはかなわぬ願いである。

塚本青史『仲達』B-、パトリシア・カーロン『行きどまり』B

【最近読んだ本】

塚本青史『仲達』(角川文庫、2012年、単行本2009年)B-

 司馬懿仲達が主人公という珍しい小説。司馬懿ははたらきが大きい割に、前面に出てくるのがやや遅いのと、諸葛亮の人気のせいか、不遇な人である。本作は曹操の死の直後からはじまり、世間の評判に流されずに政争を制したあとの司馬懿の死までを扱うが、基本的には戦争に出ないため、宮廷闘争が主になって全体に地味で陰湿である。

 久しぶりに塚本青史を読んだがやはり苦痛であった。どうも塚本青史は、書いている内容が高度な割に、文体はエンタメ小説であるというところが、どうしてもかみ合っていないように思える。会話を多用して要領よく話を進めてはいるのだが、ストーリーが起伏に乏しいために、結局は時代情勢の説明を延々と読むような形になってしまう。途中で退屈になってしまうのである。何度挑戦してもそうであった。

 しかし、『霍去病』以来、塚本青史という人は、史料に忠実な小説の書き手であると思って、我慢して読んでいたのだが、実際のところどうなのだろうか。本作も『始皇帝』などと同じく麻薬がキーアイテムとして登場するという点でワンパターンだし、徐庶が妙に活躍するのも変である。徐庶は、劉備諸葛亮を推挙した人として知られるが、選ばれなかったホウ統が恨んで徐庶の母を曹操の人質にし、徐庶はその復讐のためホウ統を暗殺して魏に行った、と、本作ではそうなっている。オリジナルストーリーにしても、いまいち意義がわからなかった(後の展開にもかかわるが、それは別の人でも良かっただろう)し、実はそういう説でもあるのか、よくわからない。ストーリーを犠牲にして、正確な情報を伝えようとしているのかとも思っていたのだが……

 

パトリシア・カーロン『行きどまり』(汀一弘訳、扶桑社ミステリー、2000年、原著1964年)B

 ある少年が恐ろしい殺人現場を目撃するが、ウソつきと評判の彼はだれにも信じてもらえず、ただひとりそれを真実と知る犯人にねらわれてしまう――という話は、『小さな目撃者』(Wikipediaによると、原作はマーク・ヘブデン、1966年。カーロンのほうが早い!)をはじめいくつも書かれているだろうが、やはりプロットして、どうやってもおもしろくなる「強さ」があると思う。

 本作の場合、真犯人が事件の発覚をおそれるあまり、ほぼ自滅に近い行動をとりつづけるにもかかわらず、大人たちがなかなか真相に気づかないところがサスペンスになっている。江戸川コナンがなんにでも事件をかぎつけるのとは逆に、少年が言っていることをウソと考えるための手段を、あの手この手で考えるのだ。

 主人公だけは犯人がわかっているのに周りはいっこうに気づかない、というシチュエーションは『ささやく壁』でも使われたものであり、作者お得意といったところか。最後はややご都合主義に終わるのも同じだが、ここまでの目にあったならまあ良いのではないかと思うところも一緒である。

 しかしオーストラリアならではというべきか、読んでいると戦時中の日本軍の捕虜収容所の話がストーリーに思わぬところで暗い影をおとしていて驚いた。日本人として身につまされるところであり、ある意味日本人が読むべきサスペンスといえるのかもしれない。

神坂次郎『秘伝洩らすべし』B、ジェイムズ・デラーギー『55』B

【最近読んだ本】

神坂次郎『秘伝洩らすべし』(河出文庫、1986年)B

 薄くて読みやすいが、クセの強い短編集である。

 神坂の代表作である『元禄御畳奉行の日記』は、実在の日記を読み解くことではなやかな元禄時代の陰の部分をあばきだしてみせたが、本書でえがかれる江戸時代も、繁栄の裏で平然と差別のまかりとおる非情な世界である。金持ちは貧乏人を見くだし、武士は町人を見くだし、ヤクザは乞食を見くだし、それを疑問に思うこともない。その中で見くだされてきた者が、ある瞬間にとんでもない逆襲をしてみせるところに妙味がある。

 とはいえ読んだときはやや疲れていたせいか、それとも悪人たちもそれなりに愛嬌があるせいか、手放しで爽快なものではなかった。その意味ではちょっとクセが強いのである。その中では最初の、乞食の歌にあわせて踊る芋虫とそれを奪って金もうけをしようとするヤクザの話が、人間の欲をこえた仙人や動物の境地をかいま見せて良かっただろうか。ほかは空を飛ぶ木馬や他人の秘密をあばく超能力など、アイデアは面白いもののせせこましい人間の欲をみせて食傷気味になる。

 表紙はモンキー・パンチ。不敵な面構えが内容に合っている。

 

ジェイムズ・デラーギー『55』(田畑あや子訳、ハヤカワ文庫、2019年、原著同年)B

 舞台は2012年11月、オーストラリア西部の小さな町。平和なその町に、ある日ふたりの男が現れる。彼らは連続殺人鬼に監禁されていたのを命からがら逃げだしてきたと、まったく同じことを訴え、互いをその殺人鬼その人だと名指しする。いったいウソをついているのはどちらか? ――という、ややひねりすぎたような発端である。

 事件に立ち向かうのは、この町の巡査部長と、本部から派遣されてきたエリートの警部補。しかし元は親友だったというこの二人は、ことあるごとに反目しあう。命令をどちらが出すか、憂鬱な記者会見をどちらがやるか、雑用をどちらがやるかといったことで対立し、互いの推理や捜査に文句をつけて足をひっぱりあうのだ。見方によってはこの対立が、事件を悲劇に追いこんでいく。

 新本格を読みなれていると、このアイデア一発で500ページ近くひっぱるのかと期待してしまうが、この謎自体は半分くらいで解決し、それ以降は正体を現した殺人鬼と捜査陣の対決を描くサイコサスペンスに移行する。デビュー作というのは誰でもとかく詰めこみするきらいがあるが、本作も前半と後半でジャンルがガラッと変わるところに賛否ありそうで、その中で変わらず反目し続ける主人公ふたりが物語のトーンを支配している。

(以下ネタバレ)

 アイデアは部分的にはどこかで見たような話である。主人公自身が知らないところで事件の発生にかかわっていたという真相はロス・マクドナルドの『運命』を思い出すし、捜査陣の家族が巻きこまれて悲劇的な結末を迎えるのは貫井徳郎の『慟哭』を想起する。しかし、ストーリーにともない主人公のみならず登場人物を「自分ではどうにもならない現状」に追いこんでいくさまは悪趣味なほどで、その閉塞感や焦燥感が本作の持ち味といえるだろう。

 なお、ネットの評判ではラストについては解釈がわかれているようだが、個人的には「間に合わなかった」ということで特に疑問はおぼえなかった。事件は二人の和解をもたらしたものの、取返しのつかない不幸も与えたということこそ、この作者らしい結末であろう。

内海隆一郎『波多町』B、秋田禎信『愛と哀しみのエスパーマン』B

【最近読んだ本】

内海隆一郎『波多町(なみだまち)』(集英社文庫、1997年、単行本1992年)B

 変な小説である。平凡な男がある町を訪れ、町の住人の策略で帰れなくなるという、カフカ的というか、個人的には眉村卓を彷彿とさせるはじまりで、好きなシチュエーションである。なのに面白くないのだ。

 これは明らかにカフカ眉村卓ジェネリックではありえない。読んでいると、舞台の町がゴミの埋め立て地の上にあって植物が育たないなどとへんに社会派なことを言い出すし、最後のほうでは主人公が町の住人のひとりとの不倫に発展したりする。あまつさえ、亡き父に人生を縛られているというのがよろしくない。主人公の亡父はバラの栽培に熱心で、彼が遺した珍しい品種の株がこの町でも育てられそうだということで、息子の彼がなかば軟禁状態で協力をたのまれる。すべてが過去にがんじがらめにされたような、息苦しい話なのである。

 カフカ眉村卓も、こういったことは描かなかったはずだ。彼らの物語であれば、外から隔絶されているところに舞台が置かれる。主人公はそれまでの人生と関係のない「第二の人生」を生きつつ、決して深入りせずに脱出を試みつづける。それが逃避願望を満たしてくれるところが魅力だったのだということが、正反対の『波多町』を読むとよくわかる。

 しかし内海隆一郎は人情ものの小説が多い作家ということで、いったいこの話にどうハートウォーミングなオチをつけるのかと思ったら、拉致同然につれてこられたこの町での生活を自分の意志で選び、残してきた家族は実は浮気をしていて浮気相手と一緒になってハッピーエンド、という呆然とするような結末である。いまのところこの町は彼をバラの栽培のために必要としてくれているからいいようなものの、この先どうする気でいるのか。これに「不可解と微笑みに満ちた長編小説」などと紹介文を書いた人の頭がいちばんの不可解ではあるまいか。

 

秋田禎信『愛と哀しみのエスパーマン』(富士見ファンタジア文庫、2005年)B

 さきごろ2期までやったオーフェンのアニメがあまりにつまらなかったので、原作を読み返したくなったのだが、本はすべて実家にあって、コロナ禍ではいつ帰れるかもわからない――というわけで、読んでいなかったこれを発掘して読んだ。

 なんということもない話である。気分が落ちこんでいるときだけ超能力を使える主人公というアイデアは特に深められないで終わるし、彼をツッコミ役にして傍若無人に暴れまわるメインキャラたちも(構図的にはらんま1/2に近いのだろうか)、それぞれに複雑な背景をもってはいるものの、ストーリーを通してたいして変化するわけでもない。ただ秋田禎信の異様な文章力によって、笑えるものとなっている。

 こういうのは、別役実のエッセイと同様、おもしろさが説明して伝わるわけではないのが残念である。

神坂次郎『元禄御畳奉行の日記』A、スコット・ボーグ『消された私』B+

【最近読んだ本】

神坂次郎『元禄御畳奉行の日記』(中公新書1984年)A

 これはおもしろい。日本史上でも有数の、町人文化の栄えた元禄の世……と、はなやかな江戸の姿を語りおこし、そういったイメージとは異なる「もうひとつの元禄」を、とある尾張藩士の遺した『鸚鵡籠中記』なる日記から織りあげてみせる。

 書いたのは朝日文左衛門重章(1674~1718)という男。特にすぐれた能力をもっていたわけではないが、異様に筆まめであり、18歳のときから死の前年まで、26年8か月におよぶ日記を書いた。野次馬根性が旺盛で、自分のことだけでなく、社会のさまざまな事件の風聞を世に遺した。その日記は彼の死後、名古屋城の藩庫におさめられ、ながらく限られた者たちの間でのみ閲覧されていた。公開されたのは戦後になってからで、とくにこの著書での紹介によって世に知られることになった。

 これは原本が読みたくなる――というのは、神坂次郎の興味がどうしても「男と女」というところに行くので、紹介する世間の事件についてもそういったものの紹介が多くなるのである。怪盗や妖怪の事件など、原文を提示しているだけでろくに説明していないものも結構あって、読む人によってかなり読み味が変わる。ある男の腹から急に声がしだして当人と喧嘩になったとか、焼味噌を恐れる男が無理をして食べようとしたら持った手が腐りだして死んでしまったとか、文左衛門自身も庭に髪の毛のようなものが生えてきて気味が悪いとか、そういったもののほうが個人的には読みたいのだが、これは原文にあたるほかはなさそうである。  

 しかし読んでいてい思うのは本当に人がよく死ぬということで、やはり日常的に刃物をもっているのは危ない。嫁と姑が仲が悪いといって自殺したり、酔った勢いで恨みもない友人を切りつけて死なせてしまったり、現代でも刃物さえあればこういった事件はよく起こっていたのかもしれない。

 

スコット・ボーグ『消された私』(ミステリアス・プレス文庫、1996年、原著1995年)B+

 ネット上でまったく評価がみつからないので期待しないで読みはじめたが、これが意外におもしろかった。文句なく傑作とはいいがたいが、広く読まれてほしい作品である。

 ある日突然、自分そっくりの顔の男に殺されかけ、なんとか逆襲して相手を殺したが、家に帰ってみると自分が殺されたというニュースがかけめぐっている――というカフカめいた発端から、いったい何が起こっているのかをさぐって560ページの彷徨がつづく。ひとつ謎が明かされてもあらたな謎が生みだされて、やや厭世的な主人公のおかげで全体に暗い雰囲気であるが、退屈せずに読める。

 おもしろかったのに、作者はこの一作で沈黙してしまったようである。 

(以下ネタバレ)

 誰かを殺してその人になりかわるという話は、『太陽がいっぱい』をはじめたくさんあるが、犯人が殺そうとして返り討ちにあって殺されてしまうというのが、本作のアイデアである。主人公はわけがわからないまま、自分という人間の存在を乗っとるはずだった男の緻密な計画を逆にたどっていくことになる。そこでもうひとつ本作のアイデアとして、主人公が過去に不幸な目に遭って厭世的になっているせいで、犯人になりかわることに魅力を感じてしまうということがある。奇妙な状況に放りこまれながら、それに安住したい気持ちも持ってしまうところが、本作を一種異様な雰囲気にしているところだろう。

 途中からアイデンティティをめぐる不条理めいた話になるなど、やや強引なところもあるし、これで本当に警察に疑われないものかという疑念もあるのだが、主人公が場に適応しやすいなど意外にお調子者なところもあり、最後まで楽しんで読めた。もっと評価されてほしい作品である。

 それにしてもここまで計画しておいて肝心なところで返り討ちにあうなど、なんともしまらない犯人ではあった。