DEEP FOREST/幻影の構成

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伊藤俊治『生体廃墟論』について

『生体廃墟論』伊藤俊治 リブロポート

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「体のなかで“戦争”がはじまっている。
“劇場都市”から“電子都市”へ。大気中に張りめぐらされたメディアのヴェールは、人間の生活環境から生態系にいたる地球規模の広がりを獲得している。メディア・スーツに包まれた我々の身体は、有機体から逸脱しはじめ、新しい身体へと“進化”をとげつつある。」


著者は写真論を中心に活動している評論家で、
その領域は美術一般からエロス論、情報学、コミュニケーション論と幅広く、
『写真都市』『20世紀写真史』『裸体の森へ』『バリ島芸術をつくった男』『ディスコミュニケーション』などの著書の他、
『InterCommunication』『GS』等の編集に、浅田彰らとともに参加していた。
本書は彼が1986年に刊行した、当時の彼の思想の集大成というべき本である。


同時代の芸術作品を紹介し、かつそこから未来へのビジョンを提示してみせる本書は、
しかしそのスリリングな内容に反して非常に読んでいて退屈である。
なんというか、淡々としすぎているのである。
淡々としてつまらなさそうにさえ見える。
しかしそれでも、本書が非常に面白い本であることは間違いない。


それは20世紀のニュー・ペインティングを始めとする前衛的な美術作品について、
同時代の視点から高度な考察を展開しているから、というだけではない。
人類の未来へのビジョンが展開されていること、そしてその発行された時期が問題なのである。
本書の発行された1986年は、サイバーパンクの教祖・ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』が黒丸尚により翻訳刊行された年でもある。
しかし本書まではまだサイバーパンク・ブームの波は到達しておらず、ギブスンの影も形もない。
つまり本書はサイバーパンク・ブーム直前の未来観を知るのに格好の資料なのだ。


本書は現代芸術の諸作品に「身体への違和感」を感じ取り、
そこから「身体と意識の変容」、「人間の進化」の可能性を論じる。
そのビジョンを提供したのは、何よりもフィリップ・K・ディックの『ヴァリス』などのSF小説であった。
現実と虚構が渾然一体となり、読者の現実感を揺さぶる彼の作品は、現実感覚の希薄な時代、その未来を示すものとして熱狂的に迎え入れられた。
とはいえ当時のメディア論など、あちこちで言及されている『ヴァリス』だが、その内容が詳細に検討されることは殆どない。
それはディックの神秘体験を元に書かれた『ヴァリス』が、あまりに難解だったからである。
ヴァリス』の提示する「宗教的」なイメージは、その当時の読者にも「すごいけどよくわからない」ものだったのである。
代わりに紹介されるのは、ディックの短編などの、メディアのもたらす虚構と我々の現実が一体化している未来、という、
比較的わかりやすいものであった。


しかし当時、もっと具体的に未来像を示したのが映画である。
たとえばクローネンバーグ監督『ヴィデオドローム』をみた浅田彰は、大原まり子との対談のなかで、その興奮をこう語っている。
「最高なんですよ。とにかくおなかに入ってたピストルを取り出して構えると、粘液でヌルヌルになったそのピストルからいろんな管が出て、親指の付け根やなんかをブワーッと貫通して、手首の血管につながったりして、最後にはピストルと手が一体になって肉化しちゃうというね。ここはすばらしいの」(『WAVE 5 メタフィクションペヨトル工房
そこでは身体と機械は境界の曖昧なものになる。そして機械により延長された意識は、いずれは身体の制約を超えて無限まで広がっていく可能性をもっている。
浅田と大原はまたそうなった現実を、
「人体改造みたいなのを本当にやれるんだったらやりたいという……(笑)(大原)」
「(今の我々は)結局は人間という有機体の構造に縛られてる。」(浅田)
「膚なんか嫌だっていう人はセラミックをバシバシ貼っちゃったりとか、貼り変えたりとか……(大原)」
「(筋肉を)苦労せずにつけたい(浅田)」
「左脚くらいだったら一本とってつけかえるとか。(大原)」
という風に述べている。(前掲書)


そのとき我々の精神は、今までの狭い身体に押し込められた精神と同じものではありえない。
浅田が言うように、
「マシーンとの関係の中で、意識の違う層がでてきたりする。」
「なんかそういうものが引き金になって、多層的な意識の中の違うレベルにヒュッと移っちゃう」
そのとき我々は身体の限界を超えて飛翔し「新たな世界」へと至ることになる。
それが「身体と意識の変容」であり、「人間の進化」である。
そしてその時脱ぎ捨てられた身体はもはや「廃墟」でしかない――
それが「生体廃墟論」である。


では我々の精神はどこへいくのか――それはよくわからない。
「よくわからないが、何か凄いところ」なのである。
それは人によって違うものなのだ。
例えばそれはキューブリックとクラークが『2001年宇宙の旅』で示したビジョンであり、
ティモシー・リアリーやジョン・C・リリーがLSD服用やイルカとのコミュニケーション実験の果てに目指したものであり、
富野由悠季が『機動戦士ガンダム』シリーズを通してニュータイプという概念によって示したものであり、
飯田譲治が『NIGHT HEAD』を始めとする諸作品において提示した物質文明から精神文明への移行であった。


しかしそれらは共通して根源的には「死後の世界」と表現されるもののようである。
バタイユが、あるいはそれを受けた栗本慎一郎が示したように。
身体から解き放たれた先に精神が向かう世界。それは確かに死後の世界と呼べるものであるかもしれない。
それなら、生きながらにして「死後の世界」を見る――彼らが目指した、あるいは目指しているのはそういうことになる。
そしてそれゆえにこの時期まで多く神秘主義的な色彩を帯びていた「死後の世界」は、
サイバーパンクにより一般化したサイバースペースという概念により、テクノロジーによる強力な裏付けを得ることになるのである。


伊藤俊治はテクノロジーの発達が人間の精神を身体から解き放つ、ということにこだわるあまり、
我々がカーボン生命からシリコン生命に進化するであろう、と予言するなど、やや行き過ぎている感は否めないが、
二十世紀美術に、「身体の異化という手法による身体への違和感の表現」というテーマを見出した点は、やはり特筆に値するといえるだろう。
本書で紹介されるフランク・ロイド・ライト、ピエール・モリニエ、エリック・フィッシェル、H・B・ギーガー、J・P・ウィトキン、ミロン・ツォヴテル、シンディ・シャーマンといった芸術家たちの多くは一般にはあまり知られていない人々ばかりであるが、だからこそ異端とされる彼らの本質を同時代の視点から解析して見せた本書は、
こだわりぬいた装丁も含めてやはり傑作であるのは間違いない。