DEEP FOREST/幻影の構成

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回答編・「セカイ系」の終焉と新伝綺

「暴力」が主題となる文学が書かれる中、
その「暴力」はどこへ向かうのか――
井口時男の問いに対して一つの回答を提示するのが、


「伝奇、再燃――偽史を捨て、人外魔境を歩く理由」(飯田一史、『Studio Voice2007年2月号 特集・「80’sカルチャー」総括』)

である。
この論考において飯田一史は、
TYPE-MOONNitro+の諸作、竜騎士07ひぐらしのなく頃に』、高橋弥七郎灼眼のシャナ』、久保帯人BLEACH』といった作品群を、
新しいタイプの伝奇(=新伝綺)として挙げている。
それは、03年の秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏』完結により事実上終焉した「セカイ系」に代わる新たな流行であると筆者はいう。


新伝綺」に多大な影響を与えているのは、
主に菊池秀行、笠井潔夢枕獏栗本薫らが中心となった、
80年代「伝奇バイオレンス」と呼ばれるジャンルの作品であるが、
勿論その「新伝綺」は単純にその模倣をしているのではなく、
かつてのそれらの作品とは異なる部分も存在する。


それは、80年代伝奇が「偽史」と呼ばれる緻密で膨大な世界観に重点を置いたのに対し、
新伝綺がキャラ造形とそのキャラクターの持つ「機能」に重点を置いている、という点に集約される。
キャラ造形は現代のキャラクター小説ブームとしてわかりやすいが、
機能とは何のことかといえば、
たとえば『月姫』、『灼眼のシャナ』などの、
<普通の人間だった主人公が一度死ぬもしくは重傷を負い(人権の剥奪)、
「吸血鬼」化などの本人には制御不能な力を付与され(人外化=小市民的道徳や法規範からの解放)、
実は怪異がはびこっていた日常へ復帰する>、
という一連のパターンや、
奈須きのこ作品の多くに見られる、
<日常で折り合いをつける一方で猟奇殺人や破壊行動を行なう「二重人格」設定>、
といったもののことで、
これらが自分の「暴力」の責任転嫁の機能を持つ、ということである。
つまり、吸血鬼や多重人格といったガジェットが、
現実の我々の暴力衝動や暗い欲望を説明づけ、他人事として処理し、免罪してくれるのだ。
筆者によれば、トラウマ/心の闇の外部化、他者化、(ドゥルーズ=ガタリ的なアナーキーな力能としての)動物化の機能を持つ、ということになる。


しかしこの論には少々疑問がある。
新伝綺はその物語の世界の「暴力」を確かに説明はするが、
現実の「暴力」は、伝奇的設定を「現実」のものとして捉えた上でなければ処理されえないはずで、
新伝綺を所詮フィクション、と思っているうちは、暴力の正当化装置として機能することはありえないのではないだろうか。
それとも筆者の言う、「リアル」志向から脱した00年代においては、フィクションの設定で現在の自分を正当化することも可能になっているのだろうか。
90年代は人々が「リアル」をもとめた時代であり、そのためにオウム真理教なども、
偽史」の力で支えられた80年代伝奇を参照・愛読したが、
現代においては新伝綺に求められているものは「リアル」ではなくそれの持つ暴力性なのである、と筆者は結論づけている。


以上の二つの論をまとめるとこういうことになる。
現代の若者は「リアリティ(現実感)」を失い、その結果として現代文学には「暴力」が主題として現われるようになった。
そしてその無軌道に暴走する暴力に対する一つの「合理的」説明を与えるのが新伝綺というジャンルである。
そうであるならば、
これからの純文学には、暴力を合理的に説明する装置として新伝綺が登場する、という結論になる。
それにより、文学において過激化している暴力が、一つの道をみつけるのだ。
それが暴力と正面から向き合っていた上での答えかどうかはまた別の問題だが。
むしろフィクションに逃げ込んでいるという点で、逃げでさえある。
そしてそれを回避するための道は3つ。


①暴力に対する別の説明を見つける。
②若者がリアリティを取り戻す道を見つける。
③さらに無軌道なまま暴力が過激化していく。


これらのうちいずれかが成されなければ、恐らく新伝綺は純文学の分野にまで進出するのである。


ただ、純文学でなおかつ新伝綺、というのはどういうものなのか非常にイメージしにくい。
たとえばSF・伝奇から出発して文壇を志向した半村良のような作品になるのだろうか。
もしかしたら桜庭一樹の『赤朽葉家の伝説』(東京創元社)は、テーマは違うものの、その先鞭をつける作品として記憶されることになるのかもしれない。
しかし新伝綺は、SFやミステリのようなバリエーションの多様性を可能にする懐の深さをそれほど持ち合わせていないように見えるので、
そもそもいつまでブームが続くのか、というのが甚だ疑問ではあるのだけれど。


すべては、今後「暴力」という主題に、文学が一体どのような答えを見つけるか、にかかっている。
もしその答えが新伝綺というフィクションにゆだねられるのであれば、
それは救済であるとともに「失われたリアル」、そしてフィクションに対する敗北なのであろう。


……ホントかなあ。