DEEP FOREST/幻影の構成

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「蒸発 人間この不思議なもの」について

「蒸発 人間この不思議なもの」鎌田忠良 三一新書三一書房刊、1968年)

「ひとことでいうなら、蒸発とは、今日の虚偽的日常性に満ちた社会条件から疎外された個人が、最終的にとり得る手段として、唯一のもっとも象徴的行動である。」


本書の著者・鎌田忠良は、劇作家・詩人。
戯曲や詩を発表する一方で、
犯罪などをテーマにしたルポルタージュを多数執筆。
恐らくノンフィクション作家としての第一作がこの「蒸発」である。


本書のテーマは「蒸発」である。
人間の蒸発。
ある日、一人の人間が、何の前触れもなく、それこそ水が蒸発するように、突然姿を消してしまう。
家族や警察が懸命に捜索しても、行方は杳としてわからない。
残された者たちは、彼がその行動を選択せねばならなかった理由など皆目見当などつかず、
ただ大きな喪失と謎が残る。


そういった物語が、特に文学やミステリにおいてよく書かれてきたのは周知の通りである。
有名なところでは文学で安部公房井上光晴、ミステリでは佐藤正午赤川次郎飯田譲治小野不由美(完全に自分の好みだが)など、
単発ものとして書かれた作品も含めれば枚挙に暇がない。
しかしそれらがフィクションであるのに対し、こちらはあくまで現実を対象としたルポルタージュである。
まして刊行は1968年。
この時期は「蒸発」という言葉が流行し出した時代であり、
この頃社会を担う中心であった30代〜40代の人間は、皆それぞれに、多感な時期に戦争をくぐりぬけてきている世代である。
そのことが一体彼らにどのような影を落としているのか。
現代においても、特番が組まれるまでに多く起こっている蒸発(今では「失踪」の方が通りがよいか)の裏には、我々の知りえない何があるのか。
「蒸発」という現象の背後に潜んでいるものは何なのか。
野次馬根性ながら、非常に興味のある事柄である。
それを真正面から扱った本書が、面白くならないわけがない。


しかし実際に読んで見ると、残念ながら本書は読んでいてあまり面白くない。
それがなぜかという問いに対する答えは、
恐らく別役実の『現代犯罪図鑑』(岩波書店)が非常に面白い理由と表裏一体にある。
鎌田と同じ劇作家である別役実の書いた『現代犯罪図鑑』(いずれ紹介の予定)は、
ある現実の事件の発生、経過、それに対する公判の記録をもとに、
人間心理というものの複雑さを紐解いてみせる本である。
そこであげられるのは、夫の犯行をとめに行ったはずの妻が逆にその犯行を手伝い、
あまつさえ主犯同然の働きまで果たしたのはなぜか、というような事例である。
それに対して別役は、自己の想像力に基づいて、
夫婦であるがゆえに暗黙の内に成り立ってしまった共犯関係、
といった視点から人間心理の微妙な綾を分析することにより、
一種合理的な回答を見つけようとする。
しかしそれは別役の推測にすぎず、それが事実であるかどうかはわからない。
むしろそこにあるのは別役の創りだした物語であるといえるのだ。
対して鎌田忠良は、あくまで事実に立脚して「蒸発」の本質を見極めようとする。
憶測は極力避けようとする用心深いまでの意志が随所に感じられる。
しかしこと「蒸発」というものを語るにおいては、それではいかにも不足であると言わざるを得ない。
そしてそれを誰よりも痛感しているからこそ、著者は苦労して何かを引き出そうとする。


題材は確かに魅力的である。
一つ目は、一家の主と小学六年生の子供が蒸発した家庭。
二つ目は、仕事の話があると出かけたきり帰ってこなかった工場長。
三つ目は、31歳で独立したほどの勤勉優秀なサラリーマンの失踪。
四つ目は、歌人・銀行員としての順風満帆な人生を捨てた男。
彼らそれぞれについて、著者は精細な調査を行なう。
だが、結局、既に警察やマスコミが調べ上げた以上のことは何も見えてこない。


確かに失踪したものたちには、それぞれに暗い背景があった。
小学生の方は全くもって謎だが、その父は女性問題などでトラブルを抱えていた。
工場長は、常に独立心をもって、現状を脱け出したいと願っていた。
サラリーマンの男は、自分を殺して働き続けることに嫌気が差していた。
銀行員だった男は、実は浮気をしており、離婚を迫られていた。
他にも、関係者、特に失踪者の妻は何かそれ以上の理由を知っていて隠している、という印象を著者に与え、また、失踪者にたいする一様な冷淡さは、奇妙な印象を与える。
しかし、それ以上のことは何も見えてこない。
確かに理由らしきものは見えるが、そういった悩みを持つ人は世の中にいくらでもいるわけで、
それでは蒸発した人と、蒸発した人との間にある一線とは一体何なのか、という肝心な点が全く見えてこないのである。
そのため読んでいて非常に不満である。


それは著者も承知しているらしく、このような具体例を早々に切り上げ、別の視点からの考察を始める。
そのために彼が持ってくるのは、統計資料である。
1966年、警察が発見した家出人の数は96,046名にのぼり、その内20歳未満の者は49%。
対して家族が出した家出人捜索願いの数は32,379人で、大きく下回っている。
当然、この数字には、発見されない、あるいは捜索願を出されない家出人や、
捜索願を出されても発見されなかった人々は含まれていない。
それらの人々が含まれている可能性があるのが、18,446人の身元不明死体と、177名の記憶喪失者。
特に最後のデータは物語的興趣をもそそられるが、それにとどまってしまう。
細かく見ていくと、それらの内訳が出稼ぎで地方から出てきた者ではなく都市生活者が多い、というデータが出て、意外な事実であるかのようにもいっているが、それは今の我々の感覚ではそう珍しいものでもない。
調査の過程で、死んだと思われていて戸籍から抹消されたのに実は生きていた、という二重死体の例など多少面白い(というと不謹慎か)例も挙げられるが、決して本質に迫るものではない。


しかしそれでも、こういった数字や例は我々にある思いを抱かせずにはおかない。
そして、著者は残された家族が意外に、その失踪を事実として受け入れて平静に生きている姿を見て、
「遠くへ行きたい」を引きつつ、
我々が漠然と心に抱き始めており、本書のテーマでもあるだろう問いを我々に投げかける。
「なぜ『あなた』は、自分は家を捨てようとしないのかという反問が、自己の内部かの一方から湧きおこっていることに、すでに気づいているのではないか。」


しかし事実として本質に迫れない著者は、今度は犯罪を起こして逃亡し、行方不明のままの犯罪者に目を向ける。
ここには既に、後に犯罪を中心にルポルタージュを書くことになる前兆が見られるといえる。
実際この項で、著者は調査した犯罪者が放浪の人生を送っていて、人生の記録を殆どのこしていないことなどから、
なんら存在証明を持たない男が、犯罪を犯し失踪することで、逆説的に自己の存在を証明しようとしたのではないか、という、
珍しく物語的な解釈を提出したりしているのである。
だがそれが総ての「蒸発」の深層の本質かといえばそういうわけでもない。


次に著者が目を向けるのは、帰還者である。
一度は失踪したが、その後行方がわかったものたち。
だが彼らを追っていても、著者は失望を禁じえない。
たとえば出稼ぎに出たきり戻ってこなかった若者は、連絡しなかっただけで家を捨てたわけではないと主張するだけであったし、
他の人を見ても、離婚のためだったり、仕事が嫌になったりと、人生への不満を述べたりするが、
それらの語りにも目新しいものはなく、そしてまた問われて答える理由はどこか虚飾を感じさせてしまうものが殆どである。
しかし周囲(マスコミなど)はそれを追及しようとはしない。


ただこういった分析によって著者は、
一度「蒸発」を決意し、それがよほど固かった場合、見付かることは決してないのではないという事実を知る。
蒸発者が発見されるのは、大抵隠れ続ける意志を失ったときである。
「蒸発」するためには、自己をそれまでの生活から疎外・追放し、人ごみの日常性の中に埋没させねばならず、よほどの固い意志のもとにそれが成された場合、
発見することは困難である。
それが見付かってしまうのは、自己の内部にたえず存在するある生理的欲求に負けてしまった時である。
その生理的欲求とは、「今までの人生に戻りたい」あるいは「世の中に出たい」という、蒸発した人間が必ず思うことである。
それに負けてしまった途端に彼らはみつかってしまうのであり、そうなった以上彼らの決心はたいしたものではなかったということになる。
「蒸発といい現代の怪談といったところで、一皮むけばしょせんこの程度の「小事件的」カラクリによるものでしかないことをまざまざと知らされる。
ここには新しい行動空間のイメージも、行動による家族否定のイメージもありはしない。」
発見後、のうのうとTVなぞに出演し、「アーティストの魂」により失踪した、と主張する男に呆れながら、
著者は自分が「蒸発者」に求めていたものを明らかにしつつ、吐き捨てるようにそう言う。
そこに見えてくるものは、結局「蒸発」しようとしてできなかったものたちの小市民的世俗性のみであり、
恐らく「蒸発」し、今もなお発見されていないものたちの真実ではないのである。
最初に期待されたような戦争の影など一つもない。


結局なんら有効な解答を見出せなかった著者は、
最後に我々自身の内面に目を向ける。
「いまわたしたちに急務なのは、これらの社会的現象を自己の内部にかかわる問題として、よりリアルに空くチュアルに投影していく姿勢の確立であると思う。」
つまり、「蒸発」の理由を、外にいくら求めても見付からない以上、自らの内に求めるしかない、ということだ。
「彼ら(蒸発者)は、わたしたちの内部に潜在する欲求を、一歩先んじて行為化した先駆者にほかならない、と見ることもできるのだ。とするならば、彼らへの非難・批評は、ただちにわたしたち自身にもはねかえってくるものであることを踏まえた上でなさない限り、それは傍観的すぎるというものであろう。」
「いまひとことで彼ら(発見された蒸発者)への評価をくだすなら、そのすぐれて象徴的な行動の先行性に比較して、それを支えた内面の意識はごく常識的なものにすぎない、ということである。
この事実は、今後いかにサンプルを多数に求めていっても、ほとんど変わることのない結論的なものといってよいだろう。(中略)
ところでこの事実を凝視して得られるのは、こうした意識と行動のクレバスこそ、実は今日のわたしたちの日常を支えている真の姿の反映なのではないか、ということである。
つまり、『蒸発とはなにか』との問いは、わたしたちが日頃無意識のうちにとっている逃避行為のまさに裏返しの現象なのではないか。」
恐らく著者は、蒸発者たちに対し、何か特別な「物語」と同時に、
我々と違わない「ありふれた普通さ」も求めていたのであろう。
そして彼は、「蒸発」が決して他人事ではない、我々に非常に身近な問題であることを示そうとした。
だが結局果たせず、彼は事実の集積の果てに現われる結果を待たずに、自己の思想を前面にだしたのである。
二つ目の引用は、的確にメッセージを引き出せたように見えるが、実は「蒸発」に失敗した事例の分析であり、
つまり我々日常生活を営んでいるものは「蒸発」に失敗したものたちなのである、と述べているのだ。
真の「蒸発」そのものへの考察は、これには全く含まれてはいない。
要するにいくつかの興味深い事例を挙げつつも、著者の意図は完全に失敗してしまったのである。
「蒸発者」が実は我々自身である、ということを証明したかった著者は、
その答えの代わりに我々が「蒸発失敗者」であるということを証明してしまったのだ。
そういう意味で失敗作であるといえる本書は、だが同時に「蒸発」というテーマの難しさを逆説的に示している。
それを真に解き明かすことは、もしかしたら事実に基づくノンフィクションではなく、虚構たる文学にこそ可能である、ということなのかもしれない。