DEEP FOREST/幻影の構成

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「little Fat Man boy」について


Trailers(Silver)(初回限定盤)(DVD付)

Trailers(Silver)(初回限定盤)(DVD付)


LM.Cとは、lovely-mocochang.comの略。
Pierrotのギタリスト・Aijiと、
雅-miyavi-の石原軍団ジャポンのギタリストをしていたmayaが結成したヴィジュアル系バンドである。
「little Fat Man boy」は、デビューシングル「Trailors[Silver]」(同時発売で[Gold]もあり)に収められており、初回特典には、PVを収録したDVDが付属している。
歌詞はこちらで見られる。


http://lyric.kget.jp/lyric/gg/hw/index.html?c=0&a=LM%2EC&t=&b=&f=


画像はこちら。




この歌は一見すると、アメリカ的なホームドラマの父と子の姿を子の視点から歌ったもののように見える。
「マンハッタン発の最強のくしゃみ」などはそのイメージの典型だし、
父と子が離れ離れになろうとしていて、それでも強がって大丈夫だよ、と言って見せているように解釈できる。
そうすると兄がキノコになった、というのはどういうことかわかりにくいが、
それは我々の知らない典拠があるのかもしれない、という推測もできる。


しかしこの歌は実際はそういった平和な光景を歌った歌ではない。
タイトルから既に暗示しているように、歌われるテーマは「原子爆弾」なのである。
すなわち広島に落とされた原子爆弾リトルボーイ」と、長崎に投下された「ファットマン」を指したタイトルなのだ。


その視点から見ると、「マンハッタン発」と言うのは、原爆製造計画の中心だったマンハッタン計画を指していることになり、
当然「ボク」は原爆そのものである。
そして「シンジュをくれたおかえしに」、というのは、真珠湾攻撃に対する報復の意志を示し、
「ボクごとプレゼント」というのは、原爆を投下することを意味する。
「おどろくかな?」に対しては、日本は実際に「驚いた」わけで、その結果として無条件降伏に落ち着いた。
また、「ヨダレまみれ」というのは放射能による汚染を指し、
「キノコになった」というのは爆発によるキノコ雲、
「わたあめ」は雲、「太陽になる」は核爆発、「巨大なジオラマ」は日本、というように解釈できていく。
ラクガキされたって」は、その内容は寡聞にして知らないが、原爆に書かれていたと言う落書きのことであり、
「本日は晴天なり」というのは、投下の際のパイロットの台詞だろう。
こうして読んでいくと、「ボクのパパ」というのは、「原爆の父」というオッペンハイマーのことであると推測される。
つまりこの歌は、オッペンハイマーの開発した(と言えるのかどうか微妙なところだが)原子爆弾が、ちゃんと爆発してくるから心配しないで、というメッセージを送った歌である、ということになる。


とはいえ、厳密に読解してみるといくつか説明しきれない点も出てくる。
一つは「パパはボクをだいて『神様』そォよんだ」というところで、
そういった記録が残されているかどうかは不明である。
また、「ボクのおにいちゃんはふとりぎみ」にしても、
順序的には兄=リトルボーイ、弟=ファットマンのはずで、逆なら理解しやすいがこれではよくわからない。


ただ、こういった解釈以上に重要なことは、
この歌が原爆を歌いながら、そこに反戦のメッセージがカケラも感じられないということである。
むしろこれから勇んで爆発しにいく、という歌で、その結果起こる悲劇の気配は全く感じられない。
辛うじて「もう兄弟はいらないから」というフレーズが、後の原爆製造中止を求めているようにも見えるが、
それにしたところで自分自身が爆発するのはやめる気はないわけで、むしろ文字通りの、忘れてほしくないというメッセージであると考えた方がわかりやすい。
この歌のこういったあり方に対しては、ネット上のレビューでも多くの人が戸惑いを表明している。
曰く、「一体何が言いたいのかわからない」だとか、「こんな歌を流していいのでしょうか」等。
癒しの歌が流行する一方で過激な歌もまたもてはやされる現代音楽界では、これは特異な現象であるといえるのではないか。


これは、この歌がパンクの精神の下に書かれているからである、ということができる。
パンク(punk)とは、辞書的には低俗な、下らないなどの意味を持ち、
それがロックなどと結びつくことにより、既存の体制への反逆などの含みをも持つこととなったわけだが、
ここではその思想的な根拠を石川忠司の『現代思想 パンク仕様』(中央公論社、1997年)に求めたい。
なおこの本は『極太!思想家列伝』というタイトルで、ちくま文庫からも出版されている(2006年)。

極太!!思想家列伝 (ちくま文庫)

極太!!思想家列伝 (ちくま文庫)


本書の序章で石川は、この本全体のキーとなる「唯物論的ならず者(チンピラ)」という理念を標榜している。
明示はされないが、このならず者のスタイルこそがパンクなのである。
石川は以下のように述べている。


唯物論的ならず者は、正面切っては何もしない。
その代わり、まるで寝首をかくような、『卑怯』な不意撃ちをやる。
あらゆる言語(観念、世界像……)そのものを無力化するのである。
人間の頭を不自由にし、了見を狭くしている言語=観念のロックを外し、
彼のスタンスを軽くしてやるのだ。」(p.22)


ここで「唯物論的ならず者」に対置されるのは、「観念論的言語」であり、「批判的言語」である。
この対立の構図を説明するためには、まず石川忠司の言語観を語らねばならない。
彼によれば、言語(=観念と等置される)は、人間の根源に巣食い、その思想、感受性、世界の認識から、具体的な行為・行動に至るまでを完全に支配・管理している。
例えば我々が「日本の夏」の風景に感動するのは、脳に刷り込まれた「日本の夏」という言語的「枠組み」に従っているだけなのであり、
また我々は浅草や日本橋と言った土地を見るとき、「江戸の文化」という言語的「枠組み」を通してしかみることができない。
しかし一方でこの「枠組み」なしでは我々は何も認識できず、生きていくことができないのもまた事実なのである。
だが同時にその「枠組み」は、それが創り上げられた際の価値観に大きく歪められ、
客観的な、あるいは中立的な形ではありえない。


そしてその事実は、人が人を支配しようとする時には、自らに都合の良い「枠組み」を創り出し、
それを多数の人間に受け入れさせることが最も手っ取り早い道である、ということを示している。
実はそれは既にやられていて、その結果できあがったのが現代社会(石川がいうところの「クソのような現実」)なのである。


例を挙げれば、「勤勉」だとか、「仕事への真面目な奉仕」といったスローガンは、世の中であたかも絶対不変の真理のように喧伝されているが、
別にそれには確たる根拠があるわけではないし、
世の中が必ずしもそれだけで動いているわけではないことは、誰でも知っている。
ビジネスにおいてちっぽけなプライドが優先されることもあるだろうし、
また企業人はシビアでなければならないとし、リストラや減給を張り切って行なって見せても、
実際はその必要は殆どなく、ただ「シビアな企業人」というイメージを自己規定してそれに酔っているだけ、ということもあるだろう。


こういった、支配者集団に都合のいいように作られる言語=観念を、石川忠司は「観念論的言語」と呼ぶ。
そしてこれが、「人間は本当は何をしているのか」を巧妙に覆い隠す機能を果たしている。
たとえビジネスの実態が、待ったなしの経済的収奪であっても、観念論的言語により、
外見を「シビアな企業人」だとか、「日々を仕事に捧げ、堅実に、清らかに生きている」といった見た感じ良いものに変えられてしまうのである。


これを昔から批判してきたのが、評論家やマスコミと言った人種であった。
彼らの扱う言語を、石川は「批判的言語」と呼ぶ。
彼らはそれにより、支配者集団の支配の実態を明らかにし、新たな言語=観念を提示する。
例えば――
「大規模な政治改革を、行なう時期にきていると思われる」
「政治家と企業の癒着は、ぜひとも断ち切る必要があるのだ」
「いじめの問題は、社会全体で考えてこそ、解決の道が開けてくるに違いない」
「自分の頭で考え、主体的に行動することが重要である。」


しかしこれらはせいぜい現実を「直視」することしかできていない、というのが、石川の主張である。
すなわち現実に対して具体的に効力を及ぼすことが全くない。
そこが「観念論的言語」と「批判的言語」の違いでもある。
前者が実践的な、現実を即座に支配していくものであるのに対し、
後者は言うことは恐ろしく前向きだが、現実に対しフィードバックされることは全くなく、
愚痴や説教にとどまるものでしかなくなっている。
この「批判的言語」と「観念論的言語」の対立は、「本音と建前」という対立によって古くから認識されているわけである。


そしてここで、石川の主張する「唯物論的ならず者」の御登場となる。
その理念は本書を紹介した際挙げたようなものであるが、
彼が原典として参照するルイ・アルチュセールに拠れば、
「言語=観念の外部にあるリアルな現実の存在を承認し、そこにいかなる種類の目的も持ち込まない」立場であり(p21-22)、
また石川流にまとめれば、
「世界に総括的な真理はなく、特に意味なんかもない。
それは本来バカバカしくって、だからこそ面白い。」(p22-23)
これは実践的機能を有しながらも、意味や価値を求めないと言う点で、「観念論的言語」と大きく違っているのである。


これを石川は、言語=観念の「解体」、「爆破作業」、「現実の相対化」などと言い換えている。
そして大事なのは、その解体された言語もいつかはそのことを忘れられて元に戻ってしまうから、
作業を永続的に続けていくこと。


石川の活動が彼によればその体現なのであり、
また、かつてそれを実践した作家たちを紹介したのが本書なのだ。
紹介されている作家は、目次に現われているだけの者を挙げても、
ゴーゴリカフカ村山塊多志賀直哉井伏鱒二鈴木大拙柄谷行人ライヒ中原中也と、
なかなかにバラエティに富んでいる。
彼らをとっかかりとして、ミラー、ウィトゲンシュタインレーニンドストエフスキーといった様々な人々の生き様が語られ、
唯物論的ならず者、パンクの精神が描かれていくのである。
その話題の脈絡のなさは読んでいて快感ですらある。


そして「little Fat Man boy」を作ったLM.Cもまた、「唯物論的ならず者」のリストに加えられる資格を持っていると言えるだろう。
彼らは原爆という悲劇とともにし描かれない題材を元にして、少年の勇気と父への愛を歌ってみせた。
それはゴーゴリが悲劇としか思えない筋立てを使って喜劇を描いて見せたのと、全く同じ価値を持つ。
LM.Cは、原爆を悲劇と不可分な枠組みでしか見ることのできなかった我々の意識を、見事に相対化する。
死や破滅をがなりたてる昨今のパンクロックと違い、そういった単語を全く使わず、しかし同時に歌の向こうに死と破滅を、相対化した形で見せる。
この歌の目指すものはそういうことなのだ。
勿論原爆そのものは許されるものではないし、製造などもってのほかである。
しかしそれが唯一の真実ではなく、悲劇と言う見方も一つの価値観でしかないことを我々に教えてくれるのだ。
ネット上で表明されたこの歌への戸惑いは、そのことを知ったことへの戸惑いに他ならない。
そしてそれこそ正しく、石川忠司の言うパンクの精神の体現であるといえるのである。