DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

 本郷武夫詩集『サチコを盗み撮り』(砂子屋書房、2011年)を読んだ。


 この砂子屋書房の他、思潮社や書肆山田といった出版社は、自費出版と思しき詩集を多数出していて、たまに手に取ることがあるが、そのたびにどう読めばいいのかわからず困る。本書のような「私小説」ならぬ「私詩」ともいうべきものは特に、有名な詩人でもあればその生涯の情報とあわせて理解できるので良いが、本書のように著者の人となりがわからなくては、抽象的な叙述から想像していくことしかできない。本書も、住所が栃木県ということ以外は一切の経歴がわからない。もっともこういう本は、150ページ程度で2500円くらいするという、何も知らない一般人にはなかなか手が出せないものだから(本書は139ページで2500円+税)、内輪で読まれるのがある程度想定されているのかもしれない。
 正直なところ、著者と知り合いでも何でもない私が手に取ったのは、ストーカー的な変態心理を綴った妄想的な作品が(一編だけでも)入っていることを期待してのものだったのが、そういうものでは全くなかった。
 未発表の、断続的に書き継いだものを集めたというこの詩集には、とびとびに、サチコという女性が登場する。

遠くでサチコが立ち止った
ぼくを見つけて (用事)

 読んでいるとおぼろげに浮かび上がってくるのが、サチコというのが著者の妻であり、死別しているらしいということである。

サチコよ 机の引き出しを開けて
写真の中の 君に抱かれる (写真の中から)

実物のサチコと消えて行くサチコとぼくの
奇妙な位置関係
から生まれる
増殖するぼくの言葉は
その速度に付いて行けず
見えなくなって行く (一条の光の……)

「盗み撮り」というのは、記憶の中で再生される彼女の姿の謂である。記憶の中の彼女は、レンズ一枚隔てた向こうにいて、こちらの視線に気づく(気づいてくれる)ことはない。

見えない心だけのぼくは
ガラスの向こうの
サチコを見ている
サチコは動く
生きているということは動くことだ (ガラスの向こうのサチコ)

 そういう意味で恐らく「盗み撮り」なのである。どうも著者は、自分の記憶をコンピュータのように捉えていたり、

ぼくの脳はサチコの映像が電力だ
幾つものいくつもの映像を詰め込んだぼくの脳は
仕舞い込んだものを見るのに
幾つか不便がある
上のものしかすぐに出ないこと
少し下のものを出すとぼくが涙もろくなること
うんと深い映像の部屋のカギは
ぼくが持っているわけでなく
サチコが持っているのだ (サチコを盗み撮り)

 世界が言語によって把握されることを過剰に意識していたり

震えている言葉を見つけたぼくは
「もう寒くはない大丈夫 元気を出して」
サチコの言葉をみつめる (重い冬)

サチコ! と叫びながら
死の中の言葉は
サチコを引き戻そうと
行ってしまった方角へ
サチコを
語り始める (一条の光の……)

「サチコの言葉は樹下の舞い落ちる花びら」
ふと そんな言葉が聞えてきて
ああ私は
この言葉の中に今いるのだなと思った

 ひょっとするとソシュールロラン・バルトで読み解けてしまえそうなあたりが、理に落ちて良くないとは思う。しかしたとえば、手に取るきっかけとなった変態じみたタイトルだとか、サチコと関係のない詩の、トイレで隣の個室の音に耳を澄ます話などといった韜晦の陰で、全編を通じて流れているのは、「目の前にあるのに手が届かない」ものへの希求と哀切である。読んでいると、抽象的な言葉の並びの向こうに、深い哀しみの存在を感じさせる詩集であった。

サチコを盗み撮り―詩集

サチコを盗み撮り―詩集