DEEP FOREST/幻影の構成

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 渡辺格『人間の終焉』(朝日出版社、1976年)を読んだ。

 日本の分子生物学の草分け・渡辺格(わたなべいたる、1916-2007)による、当時の先端科学・社会思潮の集大成のようなエッセイである。恐らく当時の読者は、自分の漠然とした感覚を代弁してもらうとともに、今後の科学のビジョンを与えられた気がしたのではないか。
 読んでいて、とりわけ全体に感じるのは、著者の、そして多くの日本人がかかえていたであろう西洋コンプレックスである。戦時中、自分なりの研究テーマをもつに至った著者が海外に目を転じてみると、既にその研究をしている人がたくさんいた――という苦い挫折経験から、所詮日本の学問は西洋の学問を場当たり的に取り入れたものにすぎず、その真似をしても、哲学的な思考の積み重ねをもつ本場の研究にはかなわないのではないか――と、昔からよくある敗北宣言のようなことを言う。
その一方で、西洋科学は行き詰まりを見せていると言い、それを乗り越えるため、東洋思想に基づく新しい科学がありえるんじゃないか、と、今度は東洋の優位性に望みをかける。これもコンプレックスの裏返しとして日本論にはよくあるものだ。
 西洋科学における、生命現象の物理化学的な解明を目指すアプローチは限界をみせているので、それに代わる新しい観点が必要なのではないか――という提言は、このあとに流行するニューエイジ・サイエンスを先取りしているようなところもある。それとあわせ、専門化して社会と乖離した科学をもっと身近にすべき、という意見は、現代にも通じるものだ。
 表題の「人間の終焉」は、人類がいずれ滅亡する以上、どのような形で滅亡を迎えるか――というもので、フーコーは出てこない。ここで話は唐突に、現代〜近未来から遠い未来に飛ぶ。渡辺格によると、現在の人口増を考えるといずれ「人工的な淘汰」を検討する必要が出てくる。そのとき、分子生物学の成果から、遺伝的に優れた者を生き残らせるような優生主義的な社会に進んで延命する(それでも滅亡はする)か、人類の滅亡を早めても、弱者と強者両方の共存を目指す「価値的に美しい」社会を選ぶか、と問いかける。根底にあるのはやはりありふれた終末思想であるが、人類滅亡後という宇宙史的なビジョンは、親交のあった小松左京*1が良くも悪くも影響していると思われる。
 この章は最後に置かれているがいささか唐突で、あとがきを読むとその事情が分かる。いわく、『エピステーメー』にて「人間の終焉」というタイトルで連載を始めたのは良いが、最初の構想とは違って「人間の終焉」ではなく「人間の生き残り」という流れになってきた。しかしタイトルはもう決まってしまっているので、仕方なく最後に「人間の終焉」という文章を当初の予定通り書いた。だったら単行本にするときに書き替えればよいのではないかとも思うが、連載中にかなりの反響があったようで、そのままにしたものらしい。
 人類の滅亡というのはその時代の確たる根拠のない「気分」によるもので、特にどのように滅亡するのかという考察があるわけではない。それでいて滅亡の美しさを語るという、論理の飛躍は本書の欠点である。しかし分子生物学の発展がもたらす遺伝子診断・遺伝子操作の技術の紹介や、それらがはらむ危険性などの指摘は、当時の第一線の科学者らしく、現代を正確に予見している。この時点ではあまり具体例はないので、あくまで危険性の示唆にとどまる。大西巨人渡部昇一の「神聖な義務」論争でさえこの後、1980年のことであり、そのさきがけをなす提言でもあった。
 内容の大部分は倫理の教科書のようにスタンダードで、逸脱はなかったが、それは逆に渡辺格の予見の正確さを示すものでもある。具体例に関しては、クローンや出生前診断等の問題を追究する最新の本に当たるべきであるが、生命倫理の歴史においては、無視することはできない本である。

*1:同じ朝日出版社で共著『生命をあずける――分子生物学講義』を出していたほか、角川文庫版『復活の日』の解説を書いていたはずである。