DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

赤川次郎『台風の目の少女たち』B、山本美希『ハウアーユー?』A

【最近読んだ本】

赤川次郎『台風の目の少女たち』(ハルキ文庫、2012年)B

 夫も娘も捨てて不倫の末駆け落ちをしようとしていた女性が、大型台風の接近によりそれを阻まれる――というところから物語が始まる。嵐を避けて、山間の町の人々は近くの体育館を避難所とするが、次第にひどくなる嵐の中で孤立する。殺人事件が起こったり、銃を持った男が紛れ込んだり、そこへ夫の不倫相手や娘の恋人の浮気相手が現れたり、事件が次々に起こる中でそれぞれの思惑が絡み合い、生き残る道を模索していくことになる。

 赤川次郎だけあって読みやすいが、題材のわりに読み口があっさりしすぎている印象。不倫や殺人といった大事件が起こっては数行で通り過ぎていくのは、300ページに満たない本では仕方ないのかもしれないが。個々人のドラマは災害下の非常事態の中では扱いが小さくならざるをえないはずで、そこであっさりした描写にも説得力が生まれるはずだったのだと思う。しかし本作では、肝心の台風の描写が窓の外の嵐のようにいまいち実感のないものとなっており、臨場感に欠けていた。理由を考えてみるに、赤川次郎の作品では登場人物の会話で物語が進むことが多いということがある。それは確かに読みやすいのだが、逆に言えば会話ができるというのは、台風がその程度であるとことを暗に示してしまっているように思えるのだ。近くにいるのにコミュニケーションもままならない危機的状況下での生、というのがやはり、災害小説でのスリルの一つではあるまいか。

 赤川次郎の他の災害ものとしては『夜』が好きだったが、あれは災害よりもそれにより甦った謎の怪物のほうが恐怖を演出していた。本作では殺人鬼のような者が出てきてもすぐに退場するような肩透かしの連続で、それに代わる存在はなかった。

 

 久しぶりに赤川次郎の作品を読んだが、色々文句を言っても「赤川次郎らしさ」はこの作品でも健在である。町の人たちが頼りない中で、たまたま都会から来ていた女の子が思いがけないリーダーシップを取って話を引っ張っていったり、町医者のような老人が豊富な知恵で状況を見通しているといった要素は、いかにもと思ってしまう。故郷に帰ってきたような懐かしさである。

 

 

山本美希『ハウアーユー?』(祥伝社、2014年)A

 夫は日本人、妻は外国人、娘がひとりという、近所からみても幸せそのものの家庭。だが夫がある日突然失踪したことで、その幸福が崩壊する。夫は携帯電話を家に置いていったから、明らかに自分の意志で出ていったのだ。それでも妻はいつか夫が帰ってくると信じ、連絡をひたすらに待ち続けるが、やがて精神のバランスを崩していく。平静を装いながらも、退行したり暴れだしたりと次第に奇行が目立っていく母親に耐え切れず、娘は恋人を作って出ていってしまう。近所からも見放される中、ただ隣家の女の子はたった一人の味方となり、物語の終りを見届けることになる。

 岡崎京子的な、時に乱雑とも見えるような筆致は狂気を表現するのにふさわしく、読んでいて胸に迫るものがある。しかし岡崎京子がそうであるように、かなり計算されて物語が構築されていることが、打ち明けすぎともとれるあとがきからわかる。もっともその割にはスピード重視な展開で、一気に読み終えてから思い返すと色々と無理がある。一体妻の実家はどうなったのか、留学中に恋に落ちたというが駆け落ちだったのか、妻が天涯孤独の身だったのならそれを捨ててしまったほどの理由は何なのか、妻には昔に別の恋人がいたようなことがちらりと示唆されているが、彼女の意識の中には原因への心当たりが全くないらしいのはどういうことか。読み終えてみると色々疑問がわくものの、読んでいる間はそれどころではなく、夢中だった。

 読みながら思い出したのは、カネコアツシの『SOIL』(ビームコミックス、2003~2010年)だろうか。あれはニュータウンの平凡な一家がまるごとある日突然失踪し、事件を調査するうちに住人の狂気やニュータウン造成前の歴史などの隠された背景が浮かび上がってくるというサスペンス漫画であった。

 それと比較したときに『ハウアーユー?』に感じるのは、「意味づけへの徹底的な拒否」だろう。結局のところ彼女の人生の物語は、我々読者に何をもたらしたか――というと、特に何も、わかりやすい教訓や警告は残してはくれない。彼女の人生に深くかかわることになった隣人の少女は、成長してから彼女の人生をめぐるドキュメンタリーを作ろうとするが、彼女のことは何一つ明らかにすることはできない。インタビューを受けた近所の人々が語るのは彼女が自分にどう見えていたかということだけだし、少女もまた何か語ろうとしても自分自身のことを語るばかりである。

 それでも、彼女が確かに生きていたのだということは、泣きじゃくって真っ赤に腫らした目や、認めきれない絶望に歪んだ表情を通して、読んだ我々の心に焼き付いて残っている。しかし、その内部で何があったのかを知ることは、我々には永遠にできない。そう考えたとき、冒頭のぺソアの引用が納得できる。

わたしが死んでから 伝記を書くひとがいても

これほど簡単なことはない

ふたつの日付があるだけ――生まれた日と死んだ日

ふたつに挟まれた日々や出来事はすべてわたしのものだ

 個人的には、これは最後に置かれるべきではないかと思う。読者に与えられるのは、彼女が生まれ、そして死んだということだけである。釈然とせずに読み返したとき、このぺソアの詩に触れてその意味を知ることになるのだ。

 

 男性としてはやはり、不在の夫が気になったが、女性が読むとどうなのだろう? 途中で、これは夫は最後まで出てこないか、全部終わった後にのこのこ出てきて海でも見つめながら「疲れたんだ」などと述懐するとか、そんなところなのだろうとは思ったけれど。一方で、理由の全く見えない失踪は理不尽であるがゆえにかえって衝撃的で、頭は合理的な解釈を生み出そうとしていた。もしかしたら夫は単に携帯電話を忘れて出ていっただけで、何かの事件に巻き込まれて身元不明のまま死んでしまったのかもしれない……などと考えると、これは安部公房の『砂の女』を妻の側から見た話なのかもしれない。あの主人公も結局もどらず、妻が届け出て死亡扱いにしたのだったか。妻は待っている間どうしていたのだろうか、と初めて思った。

宇津田晴『俺の立ち位置はココじゃない!』B、梨屋アリエ『スリースターズ』B

【最近読んだ本】

宇津田晴『俺の立ち位置はココじゃない!』(ガガガ文庫、2017年)B

 男らしくなりたいのに「姫」と呼ばれている少年と、女らしくなりたいのに「王子様」と呼ばれている少女が出会い、「理想の自分」を目指して協力して奮闘するコメディ。

 文章力の賜物というべきか、どれだけ努力しても姫と王子様扱いされて空回る前半のドタバタが良く書けていて、後半でいくつかの事件を経てそれぞれが男らしく/女らしく活躍しても、率直に言って「似合わない」と思ってしまった。この辺作者がマジメに1巻で一段落させようとしたために、よく言えば正統派、悪く言えば無難にまとまってしまったように思える。どうやら2巻で終わってしまうらしいが、かなり手堅い(新人かと思ったら少女向けラノベで既に実績のある人だった)ので、前半のノリをそのままで不憫キャラとして投げっぱなしで終われば、もっと続いたのではないか。

 

梨屋アリエ『スリースターズ』(講談社文庫、2012年、単行本2007年)B

 裕福ながら両親の愛に飢え、葬式に紛れ込んで得た死体写真の投稿ブログを主宰する弥生。

 貧乏で親の愛が得られずに運命の愛を求め、恋人をつくっては別れを繰り返す愛弓(あゆみ)。

 非の打ちどころのない優等生として生き、親や教師の期待やクラスメイトの妬みに押しつぶされそうな水晶(きらら)。

 境遇の全く異なる3人の中学生がネットを通じて出会い、最初は集団自殺しようとするが失敗し、「スリースターズ」というグループを結成して社会を破壊するための自爆テロを企てる。

 あらすじをまとめるとそういう風になってしまうが、爆弾が登場するのは最後の方だし、おそらくティーンズ向けの小説なのでもちろんテロが実行されるわけではない。物語の3分の2以上は3人が出会う前の、それぞれが居場所を失うまでに充てられる。これがすごく上手くて、周囲のひとりひとりが軽い気持ちで心無い言動をした結果、もはや修復不可能なくらいに3人を孤立へと追い込んでいく様は、見ていて胸が痛い。そして彼女らの直面した問題に対して、必ずしも十分な答えは出ない。ただ、もといた社会から逃げ出して、自爆テロのために予期せぬ迷走を繰り広げた末、愛弓は新たな愛を見出し、水晶は価値観の違う人たちに出会って自分の全く知らない世界があることを知り、再び歩みだす勇気を得る。物語は彼女たちが弥生もまた立ち直らせようと決意するところで唐突に終わる。未来は決して明るくはないが、どこか希望を感じさせるラストである。

 しかし改めて考えると、実際のところ3人の未来はどんなものなのだろうと思ってしまう。3人を追い詰めていった社会は、これから対決することが困難に思えるくらいに強大で残酷に描かれる。弥生については解決を見ず、親の愛を得られず死体写真に自分の生を見出す心の空虚が埋められるかどうかはわからない。愛弓の母親は親としての役目を放棄して姿を消し、その友人は恋人を取られたと勘違いしてクラスに悪い噂をばらまいている。水晶を縛ろうとする母親は反抗する娘を屈服させるために包丁まで持ち出すし、彼女の成績に嫉妬するクラスメイトは被害者意識すら持ってクラスを煽動して孤立させる。そんな人たちに、いったいどうやって抵抗できるのだろうか。もしかしたら彼女たちは、一時間後には再び社会への絶望に囚われているかもしれない。ネット上の感想をみても、未来を読者の想像にゆだねるラストは賛否両論のようだ。解説の雨宮処凛は、作品を絶賛し共感を示したあとで3人の未来について述べる。

 少女たちは、きっとすぐに忘れてしまうだろう。

 スリースターズのことも、それぞれのことも、お風呂に薔薇の花を浮かべた夜も、さよならパーティーも、自爆テロ計画を立てた短い日々も。

 きっと一年も経てば、この日々のことは幼い頃の記憶よりもあやふやで白昼夢のような手触りになっているだろう。そして三人はもう連絡なんかとっていなくて、お互いの顔も思い出せないのではないだろうか。

 少女の一年とは、そういうものだ。

 そして、おそらくそれぞれが恋におちて、失恋をして、傷ついて、そんなことを繰り返して、気がついたら三人は彼女たちが「つまらない」と思っていたような大人になっているだろう。(p.484) 

 ここに示されているのはおそらく「良い未来」ではないだろう。けれどそうすることでしか、三人は生き残ることはできないというのが雨宮の結論だ。雨宮処凛の自伝的要素を含むとされる小説『ともだち刑』(2005年)の主人公は、中学時代のイジメをうまく切り抜けられなかったことで、美大を目指す予備校に通う現在も、心の傷を抱えてうまく社会と折り合えないでいる。その雨宮ならではの、批判的な結論といえる。

 たとえ過去が真っ暗で、ひょっとしたら未来も暗いものかもしれないが、いまこの現在は輝いてそこにあり、それはきっと心の支えになるであろう――という形式の物語は、テンプレートとしてよくある。それは物語としてみた場合美しいのだが、必ずしも現実に対して有効な答えを与えてはくれない。答えを出す困難さは、多くの物語が挑んでは壁に阻まれてきたように見えることからも察せられる(たとえば同じように社会から外れてしまった少女と少年が犯罪を通じて出会う作品として、松岡圭祐の『マジシャン』(2002年)とその続編『イリュージョン』(2003年)があるが、これも完結編として予告されている『フィナーレ』はいまだに刊行されていない)。本作でも、500ページ近く読んで、答えは得られない。そういうことが主眼の物語ではなかったかもしれないが……雨宮の解説に見るように、すでに答えはほぼ決まっているのに、それを明言することをややはぐらかされた気分になったのは事実である。

源氏鶏太『永遠の眠りに眠らしめよ』B、ジャック・カーティス『グローリー(上・下)』B

【最近読んだ本】

源氏鶏太『永遠の眠りに眠らしめよ』(集英社文庫、1985年、単行本1977年)B

 サラリーマン小説の草分け的存在として知られる源氏鶏太が、作家人生の後期に手掛けた怪奇小説のひとつ。

 主人公は、ある日突然、社長の急死によりその後釜に座ることになった男。専務という立場に満足していた彼は思いがけない幸運に喜ぶ間もなく、次々に奇妙な事態に見舞われる。出世競争に敗れた昔の友人がふらりと現れ嫌味を言って去っていったかと思うと彼がすでに死んでいたことがわかったり、社員の一人が突如凄惨な自殺を遂げたり。謎の女、既に死んだはずの人たち、生霊、互いに矛盾した現象、ドッペルゲンガーめいたそっくりさん、白日夢といった不可解な出来事の連鎖の末、彼は同じ現象に見舞われていた秘書とともに、すべての事象をつなぐ驚くべき真相を突き止める――

 さすがにベテランだけあって読みやすく、つまらないことはないが何しろ長い。さっき会った人は幽霊でした、街で会った人がXXに見えたけど別人でした、さっきXXと会って何か意味深な話をしたけどあれは夢だったかもしれないという、主要人物が半分以上果たして生きているのか死んでいるのかすら何一つ確かなものがわからない、しかもよく似た展開がずっと続く。これはやはり連載小説だから行き当たりばったりに進んでいるのかと思ったら、著者には珍しい書下ろし小説だという。読んでも読んでもなかなか終わりが見えないのは迷宮めいてそこはかとない恐怖ではあったが、まさかそれを狙ったのではないだろう。

 ばらばらの出自を持っていると思われた主要キャラたちの先祖が、実ははるか昔になにか関係があって、それが現代の彼らに影響しているらしいという、徐々に見えてくる真相は面白いが、最後は淡路の呪われた一族という、やたら具体的なところに行きついてしまったのは驚いた。同じく血筋というものを主軸に据えることが多かった横溝正史だったら架空の島や村が舞台だが、ここではそれすらしていない。淡路島内の地名は流石に架空のようだが、やはり人によっては良い気持ちはしなかったのではないか。

 物語の構造としては、ある日突然に分不相応な地位についてしまった男が、内心に抱いたうしろめたさを克服して立派な社長となる――という話を怪奇小説として描いているということになるだろうか。秘書が同じ立場に置かれるために「仲間がいる」という心強さから多少恐怖や孤独が薄れてしまったのが惜しい気がする。やはり怪奇現象は一人で逃げ道のないものが一番怖い。

 

ジャック・カーティス『グローリー(上・下)』(長野きよみ訳、ハヤカワ文庫、1990年、原著1988年)B

 目の前にいるのに姿が認識できない殺人鬼、という冒頭は魅力的である。風呂の最中に殺される女性というのは、多少『サイコ』を意識しているのだろうか。

 イギリスを舞台にサイコホラーとポリティカルサスペンスの融合……というとどんなかと思ってしまうが、ある政治的陰謀のため口封じに雇った殺し屋が実はサイコキラーだったという話。主人公はアル中の元刑事で、殺人鬼が残したわずかな手がかりを辿っていった末に、アメリカや中南米の某国の政治経済を揺るがす巨大な陰謀に迫っていく。

 つまらなくはないが、やはり二つのジャンルの食い合わせが悪い印象。ポリティカル・サスペンスでは、人間は合理性に従って生きる(ことになっている)ため、物語に入り込んでくる不合理性がドラマとなるのだが(家族を守るために敢えて不利益な行動を取るとか)、サイコホラーはむしろ不合理な行動こそがメインであり、その中に実は合理性の芯が通っていることが恐怖を煽るという、ベクトルの異なるジャンルである。そのためサイコホラーパートとポリティカルサスペンスパートはあまり交わらずに終わってしまう印象だった。

 実際のところサイコキラーが依頼と関係なく欲望に任せて殺人を続けたせいで、解決の糸口が見つかってしまうのだから、国際政治をコントロールしていたつもりが、アル中の元刑事ひとりに追い詰められてしまう政財界の大物たちはたまったものではなかっただろう。妻を突然の事故で失い、ショックでアル中になった元刑事が、事件をきっかけに立ち直ろうとして、何度となく酒に溺れそうな危機を迎えるのが一番ハラハラしたかもしれない。

小田実『ガ島』B、フレデリック・ポール『ゲイトウエイ』B

【最近読んだ本】

小田実『ガ島』(講談社文庫、1979年、単行本1973年)B

 遺骨収集という名目で金儲けのクチを求めてガダルカナル島を訪れた大阪商人が、ジャングルで遭難し、彷徨の末に幻覚の中で日本軍の一兵卒となり、ガ島=餓島の激戦の悪夢を見る。今でいうと奥泉光が書きそうな話であるが、実のところその部分はラスト数十ページに過ぎず、メインはそこに至るまでの旅行小説であり、それを通して描かれる高度経済成長期の風俗を描き出した小説である。

 時代は70年代、一代にして大手トンカツ屋をつくりあげた大阪商人が、偶然から妻の姉と香港に旅行に行くことになり、そこで出会った山師めいた男とガダルカナル島にリゾート開発という話につられて現地を訪れるまでの旅が詳細に描かれる。

 書き出しはこんな感じである。

 なにしろ、こわいことが昔から大きらいな男なのである。それで、ヒコーキなんか乗ったことがない。自慢じゃないが、ほんとうの話だ。あんなものが、そもそも、飛ぶはずがあるものか。昔の、プロペラをたよりなげにまわしてやっとこさ飛んでいた「赤トンボ」あたりの練習機ならいざ知らず、今の世の中、そんな悠長なことではラチがあかぬ。ピカピカ光る巨大な翼にエンジンをいくつもぶら下げて、ゴウッーとかウウッーとか首狩り族の雄たけびそこのけのドー猛な叫びをあげながら、デパートほどもあるジェット機が中天めがけて一直線に馳け昇る。言わずと知れたジャンボというやつだが、わたしの見るところ、あんなものが実際に飛ぶはずがないのである。あれはただあんなふうに見えているだけのことで、わたしのような下界の見物人も、なかの団体旅行も、夢を見ているのである。老若男女、そろいもそろって夢を見ていて、それで、飛ぶ。飛ぶように見える。

  こんな調子で、何か見たら何か思わずにはいられないという勢いでとにかく喋りまくる。それは小田実自身でもあるのだろうが、批評とも感想ともつかない無駄話が続くので、読み飛ばしているといつの間にか場面が変わっていたりして困ってしまった。自分は何か見ても「特に感想はない」ということがよくあるのでうらやましいくらいである。

 とはいえ、この饒舌な文体で浮かび上がってくる大阪商人というのが本当にうまくて、開高健小松左京藤本義一といった大阪文学の作家たちに一脈通じるものがある。「うまいで、安いで、ワッハッハッ」なる大ヒットCMからして正直好きになれないのだが、高度経済成長期の日本人のステレオタイプ的な姿をこれほど克明に描いた小説も珍しい。全編にわたって酋長、黒ンボ、土人といった言葉が飛び交うので、『HIROSHIMA』などと違って再刊はまずムリだろうが、時代の資料としてのぞいてみる価値はある。

  

フレデリック・ポール『ゲイトウエイ』(矢野徹訳、ハヤカワ文庫、1988年、原著1977年)B

 太陽系に発見されたヒーチー人の遺跡「ゲイトウエイ」。ヒーチー人は何者か、どんな姿でどんな文明を築いていたのか、確かなことは何もわからないが、代わりにそこにはただ大量の宇宙船が残されていた。それに乗った人間はよくわからない仕組みで自動的にどこかに連れて行かれ、運よく別の遺跡にたどりついてヒーチー人の遺産を持ち帰れば大儲け、運が悪ければ無惨な死体になって帰還するか、死体一つ戻ることも叶わない。

 かくてゴールドラッシュよろしく賞金稼ぎたちがゲイトウエイに集い、一攫千金を目指してどことも知れない旅に旅立っていく。

 主人公もそこに集まった冒険者の一人ということで、能天気な冒険小説を予想していたが、決してそんなものではない。主人公が臆病で(まあ当然なのだが)怖がって、チャンスがあってもなかなか旅立たず、その間の無為の日々と、彼を置いて先に旅立つ仲間たちが描かれる。そんな彼がゲイトウエイで過ごす日常と、10年以上あとの彼――遂に旅立って無事に帰還し、巨万の富を得たものの、精神を病んでいる彼――のカウンセリングロボットとの会話が交互に延々と描かれ、最後に物語は一つになり、彼が決定的に精神を病むに至ったある事件が明かされる。

 ストルガツキー兄弟の名作『ストーカー』を意識しているのが第一だろうが、アメリカ史におけるゴールドラッシュ、隆盛した冒険小説へのアンチテーゼ、ヴェトナム戦争による社会全体のトラウマと精神分析の流行など、多様な含意が見える。ヒーチー人の遺した宇宙船による宇宙の探索は、一見すると古き良きアウタースペースもののように見える。しかし、それはただ機械に運ばれていくだけの受動的なものであり、またカウンセリングにおける精神世界の探求は外宇宙の探索と並行して描かれ、宇宙文明レベルの事件が個人レベルのトラウマに収束していくといった構図は、インナースペースものそのものである。これはニューウェーブへの皮肉か、それともニューウェーブとそれ以前のSFの融合という一つの解決なのかはSF史に詳しくないのでよくわからない。

 ただ試みとしては面白いものの、これをずっと読むのはやはり退屈である。続編では謎のまま終わらせたヒーチー人の正体や、主人公が精神を病むに至った事件の解決が描かれるようで、軒並み評価は悪い。どうしようかな……

萩原麻里『暗く、深い、夜の泉』B、同『月明のクロースター』B

【最近読んだ本】

萩原麻里『暗く、深い、夜の泉』(一迅社文庫、2008年)B

 閉鎖的な全寮制の高校が舞台。そこに転入した一人の少女を主人公に、最初はなんとなく赤川次郎のような雰囲気の謎めいた学園ミステリとして始まるが、学校の怪談、謎の生徒会長、生徒の自殺、超能力、前世の記憶、予知夢、ゾンビ、幼児虐待、七三一部隊、ネオナチといった伝奇小説の要素てんこ盛りの展開の果て、超能力者の一族とそれに対抗するスパイ組織の対決の歴史が浮かび上がる。300ページたらずの作品でここまで話が拡大するとは正直思ってもみなかったが、なかなか読ませる。ただ読む年齢的には学生の内でないとやや厳しいかもしれない。謎の転校生が実は高校生スパイだったという設定を30過ぎて読まされてもね。

 最初に学校の校則がでてきて、その中に学校に伝わる怪談について調べてはいけないという一条があるというのが、ツカミとして提示される謎なのだが、これが「自分が既に死者であることに気づいてしまう]」からというのは秀逸で、これ一つで短編ができそうである。これだけでなく細かいアイデアの宝庫で退屈はしないものの、話としてはバッドエンドであまり読後感はよくない。ちょっと百合っぽい雰囲気を見せながらもあまりそういう方面には立ち入らずに終わった感がある。

 もともとは2004年に講談社X文庫ホワイトハードでシリーズ2巻まで出たがそこでストップ、どういう経緯でか一迅社文庫で再刊したがこちらは1巻でストップ。2巻は読んでないが、怪談というのが八犬伝的なモチーフを持っているので、おそらくもっと続きの予定はあったのだろう。このままいくと政治小説ラノベになっていたかもしれずちょっと気になるが……

 

萩原麻里『月明のクロースター』(一迅社文庫、2008年)

 こちらは一迅社文庫での新作で、やはり閉鎖的な全寮制の学校が舞台。幼馴染みの少女が心に傷を負った事件の真相を探る主人公(男)が、旧校舎で真夜中に開かれる謎の集会の存在を知る。ピエロや獣の仮面をつけて興奮者(インフィアンマティ)や情熱者(アルデンティ)といったコードネームで呼び合い、校内で起こっている事件について話し合う神秘主義の儀式的な集会ということで、アニメの『STAR DRIVER 輝きのタクト』(2010年)を思い出してしまう。これはビジュアルで見たいなーと思いつつ(挿絵にも集会の様子は出てこない)、面倒なのでビジュアル描写を適当に流してたら、そこも物語の一つの要素になってて参った。

 高校3年とは思えない幼い感じの幼馴染が妹のように主人公を慕っている、というのは妙に美少女ゲームっぽいし、集会や校舎裏といった場面がまず設定され、その中でのキャラクターの会話から少しずつ事件の真相が見えてくるという進み方は、ノベルゲームを進めているような感覚になってしまう。これは偶然そうなったのか、レーベルを意識してのことなのか。そんな中で幼馴染が主人公の男子寮の部屋に忍び込んでくるのだが、ラッキースケベ的な「不可抗力」イベントもなく帰らせたのがかえって新鮮だった。

 『暗く、深い、夜の泉』は校内の事件と見えたものが社会の裏で繰り広げられる組織の闘争へと拡大する話だったが、こちらは校内全体を巻き込む陰謀が主人公と幼馴染の関係性に収束していく。まあ前作よりは順当なラストと思った。やはり裏生徒会みたいな組織に納得するのはある程度年齢の制約があるだろうが。

 全編に仮面のモチーフが散りばめられている他、色々なネタが見られるのは同じだが、主人公が「学生でなく教育実習生」というのは全く思いつかなかったので、ラストでやられたと思った。確かに年齢を考えると不自然さはなくもなかったのだが。

池波正太郎『幕末新選組』B、山岡荘八『小説太平洋戦争1』C

【最近読んだ本】

池波正太郎『幕末新選組』(文春文庫、1979年、単行本1964年)B

 永倉新八が主人公の新選組小説。なぜ永倉なのかについては、解説の駒井晧二は、根っからの江戸っ子である永倉の生きざまを池波が気に入ったからであろうと推測している。江戸っ子であるというのは、物語から読み取れるところでは、明るい性格で義理堅く、正義感が強く、恋愛には情熱的で、両親には(行動はともかく)孝行心をもち、過ぎたことはこだわらず、きれいさっぱり忘れる――という風に書いていってみると、単に物語に都合の良いキャラ設定のような気もする。

 短めの作品だし、政局にかかわらず己を通すのが新八の生き方であるから、あまり大局的な話は出てこない。キャラクター的な観点から見れば、原田左之助との絡みが多いのはよく見る話だが、藤堂平助が嫌味っぽい色男として描かれ、二度にわたって新八の恋敵となり、池田屋事件で新八が彼を助けたことで無二の親友となる、というのはちょっと珍しいかもしれない。この作品では藤堂は油小路ではなんとか逃げようとして失敗して殺されてしまう。

 近藤勇は、土方に従属する存在ではなく、あくまで「親分」として人間的魅力で新選組を引っ張っているように見える。この作品の連載は『燃えよ剣』(1962年11月~1964年3月)と同時期の1963年1月~1964年3月であり、おそらく司馬により確立されたのであろう「新選組の真の立役者」としての土方歳三というキャラクターと無縁に書かれたとみてよいのではないか。

 池波正太郎をほとんど読んでいないので知らなかったのだが、鬼平(1968~1990)、剣客商売(1973~1992)、藤枝梅安(1973~1990)と、代表作は1923年生まれの池波の中では遅めであり、その中で『幕末新選組』は比較的初期にあたる。そのあたり、作風の変化とあわせて読むと面白いのかもしれないが、単体としてはそれほど読む価値があるとは思えない。

 

 

山岡荘八『小説太平洋戦争1』(山岡荘八歴史文庫、1986年、執筆1962年~1971年)C

 一冊で太平洋戦争の流れを見渡せる本を、と思ってのぞいてみたが、これはハズレだった。序文に

日支事変を泥沼へ追い込んでいるものは、決して近衛や東条でもなければ蒋介石でもないようだった。両者が握手しそうになると、列強の間から援蒋の手が動いたり、原因不明の不思議な事件が突発したりして戦線は思わぬ方向へ拡大する。前者の主役はアメリカとイギリスであり、後者には世界赤化をめざすコミンテルンの手が動いている、ということだけは気づきだしていた(p.5)

 という時点で嫌な予感がしたが、読んでみると松岡洋右が日独伊三国同盟を成立させ凱旋した1941年に始まるのだが、そこから先は日本政府は誰一人として戦争を望んでいないのに、諸大国の思惑(特に是が非でも第二次大戦に参戦したいアメリカ)の策略で開戦に追い込まれていくという被害者的な史観である。

 だからといって山岡荘八が責められるものではないだろう。従軍記者として戦場を目の当たりにし、多くの仲間を失った山岡がそのような過剰な合理化を行うのは仕方のない面もあるだろう。しかし、それをいまだに無批判で刊行し続けているというのはだいぶ問題があるのではないか。せめて最終巻では解説でフォローされているのだろうか。

 1巻の時点ではほぼ松岡洋右近衛文麿東条英機が中心で、人が多いわりに群像劇というには不足。松岡が純情に近衛に惚れ込んでいるというのがかろうじて新鮮だった。対して近衛は誰にもよい顔をするが誰も信じていないニヒリスト。この性格設定は昔からそうなのか。

遠藤周作『何でもない話』B、眉村卓『遙かに照らせ』B

【最近読んだ本】

遠藤周作『何でもない話』(講談社文庫、1985年)B

 内容はタイトル通り――つまり、取るに足らない事件や事件未満の出来事をきっかけに、自らの人生をふと振り返ったり、見方を変えることになったような人々の物語集ということになるのだろうが、しかし本当にそうだろうか。

 たとえば表題作の「何でもない話」は、主人公がやり手のテレビディレクターで、浮気相手のためにこっそりアパートを借りて世話してやっている。そんな彼がふとしたことで、その近所にかつて母親を殺しながら不起訴になった恐ろしい男が住んでいることを知る。元凶悪犯が、いまはその様子もなく平穏な暮らしを営んでいるのを見て、警察に捕まるような罪は犯していないものの、浮気して堕胎手術に付き添ってきたばかりの自分の人生に思いを馳せ、物語は何も起こらずに終わるのだが……

 しかし読み終わってから改めて見直すと、主人公のやっていることは「何でもない」ものではなくて、当時の価値観でも酷い、いずれ破滅を予感させるはずのものである。それが「何でもない話」という印象で終わるというのは、遠藤のストーリーテリングによるものだろう。物語にできるのはある程度特殊な状況であり、それをいかに「普通」に見せられるかが重要となる。他の作品にしても、社会を揺るがすようなものではなくともそれなりに本人の人生には大きな事件を一見「何でもない話」として描いていて、読み返してみて巧さに唸らされる。

 

眉村卓『遙かに照らせ』(徳間文庫、1984年、単行本1981年)B

 ファンタジー的な世界観の中で、自分たちの生きる世界にふとした疑問を持ったものたちの物語集――ただ、疑問が芽生えたところで終わってしまうので、その後どうなるかは読者の想像にゆだねられる。それが抑制が効いていると思うこともあるし、不足を感じる時もある。

 ただ、この作品集は多くが全くの架空の世界の話で、どうも世界観を読み取るのが面倒であった。

 狩に出たトライチの集団は、うまい具合にヤカの大群を発見した。

 ヤカは、ふたつの群に分れて、草を食べている。

 だから、先任リーダーのカサラ30は、みんなを並ばせて二列にし、いった。

  といった調子で、明示的ではなく、さりげなくあちこちで背景を説明しながら進んでいくのだが……架空の用語や単位ばかりの中から必要な情報を抜き出して世界観を構築していくという作業は、やはり精神的に余裕がないとつらいところがある。

 しかし今読むと、読者の読む力を養い、日常に疑問を持てというメッセージを与える、教育的な作品である。自由な発想で書いているように見えて、かなり目的意識を持って構築していることがうかがわれる。