DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

購書記録221015

【最近買った本】

2022/10/15 千葉の某ブックオフにて。

 

金子邦彦『カオスの紡ぐ夢の中で』小学館文庫

 円城塔の師匠として一時期話題になった本。最初みたとき金子郁容かと思って『空飛ぶフランスパン』とか読んだなあ、などと思ったが違う人だった。

 

西村京太郎『天使の傷痕』講談社文庫

 亡くなったのを機に手を出しているのだが、折よくデビュー作が見つかった。

 

半村良『太陽の世界 3・4・7』角川文庫

 太陽の世界も、昔はどこにでもあったのに、全然見なくなってしまった。見つけると買っている。

 

高遠砂夜レヴィローズの指輪コバルト文庫

 なつかしの作品。全18巻中、9巻~18巻まで並んでいたのでまとめて買ってきた。8巻までは誰かが先に買っていったのかもしれない。

 

北山大詩『覚醒少年』『憂感少女』『白黒乱舞』富士見ミステリー文庫

 なつかしの作品。持っているような気もするが、実家のどこにあるかわからないし、また読みたくなって購入。

 

『グラフトンのG』ハヤカワ文庫

 キンジー・ミルホーンシリーズのガイドブック。そろってはいるが読んでないのでこれを先に読むと良いのかもしれない。

 

アンドリュー・ブレイク『ハリー・ポッターの呪い』鹿砦社

 ハリー・ポッターが児童文学やエンターテインメントへ与える影響を考察した本、らしい。なんで鹿砦社で出すのかというのと、翻訳が異様にくだけているのが気になったので買う。

 

島耕作が贈るUrban Music~Twilight~』

 なにかCDでも買おうと思ってみつけた。コンセプトがよくわからない。

 

他、81冊。『アドルフに告ぐ』とかあったがまあいつでも買えるし……と思って見送り。(こういうのが後悔のタネになる)

小野不由美『残穢』B+、マイク・レズニック『キリンヤガ』D

【最近読んだ本】

小野不由美残穢』(新潮文庫、2015年、単行本2012年)B+

 最近の作品のような気がしていたが、もう10年も前の作品なのだった。

 歴史学的なロマンを持たぬでもないルポルタージュ風の作品で、小野不由美自身と思しき「私」とファンである久保という女性による、怪異をめぐるいささか地味な調査がおさえた筆致で語られる。なんだ、意外に怖くないな……と思いながら読んでいたのだが、読み終えた夜、ひとりで部屋にいると急に背後が不安になってきた。しっかり影響を受けている。

 発端となる、背後できこえてくる畳をこするような音――まるで天井からなにかぶらさがって、揺れながら畳をこすっているような――さらにいえば、何者かが帯で首を吊って、長い帯が余って畳をこすっているような――といった音がするというのは、昔別の怪談本でも読んだことがあるくらいには、ポピュラーな「怪談」である。ある家で祖母が亡くなった後、祖母の部屋で毎晩、「パタパタ、サッサッサッ」と誰もいないのに畳を掃いているような音がする。家族は、これはきれい好きの祖母の霊が掃除をしているのだろうと考えた、というお話。

 実はこれは、正体がわかっている。光瀬龍の『ロン先生の虫眼鏡』によると、これはチャタテムシというごく小さな虫のたてる鳴き声なのである。チャタテ、とはつまり、茶道でお茶を立てるときの音というわけで、まさになにかが畳をこするような音とも、ほうきで部屋を掃く音ともとれる。

 だからこの久保という人も、マンションをめぐる死者など調べないで、虫が湧いていないか探せばよかったのである。それが、マンションの周辺で起こった怪異を異様な執念で何年もかけてたどっていくうちに、調査は昭和、戦前と時代をさかのぼり、東京から遠く離れた北九州の「根源」にまで行きついてしまう。といっても、掘り起こされてくる「怪異」のひとつひとつは、そのマンションや周辺の土地で起こったというだけで本当につながりがあるものかもわからず、実際ちょっと本気を出して探せばそこらにいくらでもあるのでは、などと思わなくもない。しかし、そんな風にケチをつけてみても、それぞれがつながっていやおうなしに大きな「何か」が少しずつ見えてきて、読者自身も知らぬうちにそれに巻き込まれているのがわかるというのは、読み終えてみるととても怖いのだった。

 

マイク・レズニック『キリンヤガ』(内田昌之訳、ハヤカワ文庫、1999年、原著1998年)D

 おどろいた。こんな「後味の悪い」系の話であるとは思わなかったのだ。オールタイムベストにもたびたびあげられる作品で、特に「空にふれた少女」が良い、という話は聞いていたものの、こんな「厭な話」だなどという評価はどこにも見なかったように思う。実際に読んでみないとわからないものだ。

 お話は文化人類学SFともいうべきものである。地球上がどこもかしこもヨーロッパ文明の開発にさらされた未来、キクユ族の老人・コリバは、キクユ部族もまた西洋文明を受け入れることで、神話的な伝統を忘れたただの「黒いヨーロッパ人」になってしまうことを恐れていた。彼は同調するキクユ族を引き連れて小惑星キリンヤガに移住し、そこで真のユートピアの創造を目指す。コリバはそこで祈祷師として君臨し、呪いや教えを通じて人々を導こうとする。

 この「指導」がいちいち不快である。現実はなかなかコリバの思い通りにならず、人々は絶えず変化と進歩を望み、西洋文明を取り入れようとする。また、外部からも様々な人が惑星を訪れ、コリバの独善的なやり方に口出しをしてくる。しかしコリバは神の名のもとに、それらをことごとく排除する。逆子が生まれれば呪われているからと言って殺し、ある少女が言葉を学ぼうと望むと女性には許されないとしてその手段を取り上げ、薬があれば治せる病気も薬は西洋文明の産物だからと拒否して悪化させ、掟にそむくものがいれば惑星の管理局に頼んで星に旱魃をもたらす。彼ひとりがひそかにコンピュータを駆使し、まるで本物の呪い師のように力を振るうのだ。その独善は概して悲劇をもたらし、人々を不幸せにする。しかしコリバは、その結果に悲しみはするものの、これがキクユ族のためだと断定して、決して行動を改めようとはしない。

 これがなんとも、いらだつのである。その話の通じなさは、読んでいて絶望的なくらいである。キクユ族の酋長やコリバの息子は何度となく、西洋だからと一概に否定せず、便利なものは利用するように説得するが、コリバの返答は、ひとたび西洋文明を受け入れればキクユ族はただの「黒いヨーロッパ人」になってしまうの一点張りである。しかもそれはコリバではなく神の意志なのだ。これは単純ながら、証明も否定もできない原則であるがゆえに強固である。発言ひとつひとつを取れば筋は通っているのに、全体の中で見れば狂人の論理であるという厄介なものでもある。読者にもコリバとそれ以外の人々の間にそびえる厚い壁の存在を感じさせる。

 気楽な娯楽SFの書き手と見せかけて、レズニックは相当に周到である。コリバの振りかざす「神の怒り」は、結局のところと人々がコリバに逆らったことへの八つ当たりでしかないことは指摘されており、コリバの統治の欺瞞は読者にも明らかである。いっぽうでコリバを糾弾する側にも、西洋文明の傲慢な側面が描かれ、コリバと西洋文明のどちらにも分があることを作中で抜け目なく描いているのだ。図式的に描きながらも常に単純な二分法にとどまらない要素を残すなど、多面的な批評の視点を持つように作ってあるところが、あざといとも言える。このあたりは、アメリカにおけるヒッピーコミューンの実践と失敗の蓄積が背景にあるのかもしれない。レズニックがヒッピー・ムーヴメントにどのような態度を取っていたのかは知らないが。

 しかし――コリバが頑固に主張するように、キクユ族の伝統社会と西洋文明のテクノロジーは相容れないものなのだろうか? 以前読んだウィリアム・カムクワンバ『風をつかまえた少年』(文藝春秋)は、マラウイの一農村で育った少年が自力で風車を作り、村に電気をもたらした顛末を綴った自伝である。少年が創意工夫で風車を創り上げていくところも確かに面白いが、個人的にはとりわけ、序盤の呪術的な世界観とテクノロジー的世界観が入り混じった村の風景が、マジックリアリズムのような印象を残した。現実というものはコリバが思い描くよりも強靭なものであり、便利なものは、それが旧来の伝統に反するものであっても、色々理由をつけて折り合いをつけ、迷いなく取り入れていく。現にコリバだって、コンピュータを駆使して気候を操ることまでしてキクユ族を支配していたのだ。そもそも何か便利なものが生みだされた時、それが西洋のものか、純粋にキクユ族の知恵によるものか、どうやって判断するのか?

 そこで重要になるのが、コリバがケンブリッジとイエールで学んだインテリだということだろう。大学で何を学んだかは書かれていないが、おそらくケニアの歴史を研究したのではないか。その、西洋文明を通して理解されたキクユ族のイメージこそが、コリバが守ろうとしたものであり、彼が排除しようとした西洋文明もまた、コリバが学んだ範囲のものでしかない。コリバが守ろうとするキクユ族社会における「酋長」という制度は西洋人がキクユ族統治のために作ったものであり、コリバが再三主張する「ユートピア」という概念も西洋文明の借り物であるということは、いみじくも作中でも指摘され、コリバは神の怒りを振りかざして黙らせることしかできない。西洋文明の枠組みの中でキクユ族の伝統を守ろうとする、コリバの欺瞞はそこにある。便利なものは積極的に取り入れ、時代とともに変化しながらも、キクユ族においてなお変わらないものを見出すこと――コリバが目指すべきはそれだったのではないか。たとえそれがコリバの忌み嫌う「黒いヨーロッパ人」でしかないにしても。しかし「黒いヨーロッパ人」などという漠然とした観念を徹底して嫌悪するコリバは、周囲の声にいっさい耳を貸すことはないのだ。西洋文明の中に立ちながら、西洋文明を排斥しようとする、その矛盾の中で周囲が犠牲になっていく、そこがどうにも許せなかった。

 これはもう、このインチキ祈祷師が野垂れ死にするか非業の死を遂げるところを見届けなければ気が済まない、という意地で最後まで読んだが、ハッピーエンドではないものの、とても満足できるものではなかった。彼は最後の最後まで自分の意地を曲げず――まあ心の底では最初から全部わかっていたのかもしれないが――真のユートピアを目指して姿を消す。彼は彼の狂気を最後まで貫いてしまうのだ。いっそ最後に出てきたアレに蹴り殺されれば良いのに、と期待したのだが、そうはならなかった。考えてみればあのラストは、作中を通してただのペテン師と変わらなかった彼が、それでも本当に、なにがしかの力を持っていたことを示すために、必要なものだったのだろう。そうやって両義性を示して――悪く言えばどっちつかずに終わるあたり、徹底して読者に対して意地悪な小説であった。

購書記録2022/10/8

【最近買った本】
2022/10/8 東京の某ブックオフにて。

 

陳舜臣『小説十八史略 2~6』講談社文庫
 昔はブックオフでよく見かけたので油断していたらすっかり見なくなってしまった。そろっていたのであわてて確保。1巻は汚いけどあるので買わず。

 

山本七平『常識の研究』文春文庫
 『空気の研究』と勘違いして買いそうなエッセイ集。いつの間にか改版が出ていて、解説が養老孟司になっていた。

 

佐和みずえ『お姫さまは名探偵』光文社文庫
 知らなかったが、双子の女流ミステリ作家らしい。大正時代を舞台に伯爵令嬢が名探偵になるユーモアミステリとのことで、面白そうなので買ってみた。


ロバート・R・マキャモン『マイン』文春文庫
 かつてキング、クーンツと並びホラー小説界のトップと言われたマキャモンだが、クーンツは新作は出しているものの日本ではあまり売れず、マキャモンはほとんど新作もないらしい。なぜなのか。

 

『宇宙学園ステルヴィア校 大歌謡祭』
 キャラクターソングCD。こういうのを見つけるとなんとなく買ってしまう。

 

他に、阿刀田高『地下水路の夜』(新潮文庫長嶺超輝『47都道府県これマジ!?条例集』(幻冬舎新書倉阪鬼一郎『死の影』(廣済堂文庫)北方謙三『過去 リメンバー』(角川文庫)田中哲弥『ミッションスクール』(ハヤカワ文庫)パトリシア・コーンウェル検屍官』(講談社文庫)西岡康夫『単位が取れる統計ノート』(講談社ニール・F・カミンズ『もしも月がなかったら』(東京書籍)ジャッキー・ヴォルシュレガー『不思議の国をつくる』(河出書房新社など。

計106冊。鬼滅の刃はとめようもなく110円コーナーに流れてきている。一時期あった呪術廻戦はまたなくなった。チェンソーマンはいまだに110円コーナーでは見ていない。

真保裕一『ホワイトアウト』B、陳舜臣『琉球の風 全3巻』B

【最近読んだ本】

真保裕一ホワイトアウト』(新潮文庫、1998年、単行本1995年)B

 山奥で雪に閉ざされたダムの発電所をテロリストが占拠し、電力と圧倒的な水量により麓の町を人質にとって政府に要求をつきつける。絶体絶命のその状況に、ただ一人彼らの目を逃れた職員が圧倒的な戦力差をくつがえして立ち向かうという、日本版ダイ・ハードとも呼べるスタンダードなシチュエーションのサスペンス小説。ちがうのは、雪山登山が大きなテーマとなるところである。ダムの発電所に勤める主人公は、雪山の遭難者救出の際に、自身のミスもあって親友を死なせてしまったことを心の傷にもっている。折あしくテロリストが占拠したダムには亡き親友の婚約者が訪れており、人質になってしまっている。彼女を助けるのが彼の大きな目的となるのである。

 テロリストとの闘いが、主人公にとっては雪山で親友を死なせたミスの挽回の物語にもなっている。社会全体の大問題が個人の人生に重ねあわされるという、ある意味で図式的ともいえる話である。だからこれは、サスペンス小説や冒険小説よりも登山小説の歴史につらなる小説といえなくもないし、ダムを這う虫のような主人公の行動の、すべてを図解できそうな圧倒的なディティールはダム小説としての風格も備えている。

 面白いことは面白いのだが、大傑作とはいかず、やや肩透かしの感がある。最初は、天才的で隙のないテロリストにたった一人の民間人が知力と体力の限りを尽くしてわたりあう話かと思っていたら、テロリストたちは意外に足並みがそろわず、なかば内輪もめで瓦解していく。そうでもなければ630ページ足らずにまとめるのは不可能だっただろうし、とても銃をもった一般人ひとり程度では勝てなかっただろうが、それにしてもストーリーが進むにつれて犯人側がどんどん馬脚をあらわしていくのはちょっとつまらない。なにより、捕虜にした女性を料理係として使う官能小説まがいの発想もいまとなっては恥ずかしいくらいである。その油断がテロリストにとっては思わぬ伏兵になってしまうあたりも読んでいて情けない。そのあたりが鼻についてくると、リーダーの思惑が明らかになるあたりの一種の叙述トリックも小賢しいものに思えてしまうのである。

 それでも、雪山の寒さが伝わってくるような細部までこだわった描写は、他の追随を許さない。舞台というものはこう創るのだという気迫が伝わってきて、いまでも十分に読む価値はある。しかしやっぱりお話としてははちょっと、というのがつらいところ。

 かつて福田和也が『作家の値打ち』で「よく調べているものの面白くない」と否定的に評していたが、こういうことだったかとちょっと納得した。

 

陳舜臣琉球の風 全3巻』(講談社文庫、1995年、単行本1992年)B

 時は17世紀はじめ、琉球王国薩摩藩の侵攻という危機に直面していた。関ヶ原の敗戦で大きな打撃を受けた薩摩藩は、琉球支配下において明との交易による利益を奪い取ろうとしていたのである。

 争いを避けたい尚寧王や側近の謝名親方たち首脳部は、早くからその襲来を察知していた。彼らは部下を動かして、明に支援を求めたり、薩摩に内乱を起こさせようとしたりと諜報戦を繰り広げるが、どれも失敗する。彼らは抗戦を諦め、薩摩の支配のもとでなんとか琉球王国を存続させようと画策する。

 関ヶ原の戦いが終わり、徳川家康豊臣秀頼が次の戦いに向け不穏な動きを見せるなかで、遠い琉球ではこんなことが起こっていたという事実が興味を引く。幕末の小説なんか読むと、西郷吉之助が奄美大島沖永良部島に流刑になっていて、薩摩藩の辺境みたいになっているが、この当時はれっきとした琉球王国の一部だったわけである。幕末においては、辺境から幕府に食い込もうとする薩摩藩、そして薩摩藩による迫害を乗り越えて明治という世をつくる吉之助という構図の中で、実は吉之助もまた迫害者の一端をになっている。そういう歴史を果たして西郷は知っていたのかいないのか、とにかく日本の歴史を別の角度から見られるのは新鮮である。

 それ自体は非常に勉強になるが、どうも繰り広げられるスパイ戦が高度に過ぎて、読んでいてどこまで本当なのか疑ってしまう。薩摩に舐められないよう、形式的に抵抗してから最小限の犠牲で戦略的に降伏したことになっているが、有効な手を打つ暇もなく侵攻されたというのが実情なのではないか。物語の中では、薩摩を受け入れた上でゲリラ的な抵抗をするようなことを言っていたものの、そのリーダーになるべき拳法家・震天風が戦いで傷を負って死んでからは、そういった話はなくなり、後半では琉球王国は背景にしりぞいてしまう。真田幸村接触してきて大阪の陣の残党を引きとるような話もあるのだが、それも特に話としてふくらむ様子もない。もしかして真田幸村豊臣秀頼琉球王国残党の頭領として迎えられる展開もあるのかと、一瞬期待したのだが。

 後半は、生き残った主人公の啓泰が、明の打倒を目指す組織と組んで、商業ネットワークによる「南海王国」の創立を目指す物語になっていく。3巻では啓泰もあまり出てこなくなり、話はアジア全域に広がり、明滅亡から清の建国、そしてヨーロッパも介入する雄大な世界史が駆け足で語られ、物語は若き鄭成功に受け継がれていく。だからこれは、陳舜臣の代表作である『鄭成功 旋風に告げよ』(1977)の前史ということにもなる。

 大河ドラマはこれを原作としつつも、もっとドラマティックになっていたはずで、後半はまったくの別物だろう。こんな世界史のダイジェストのような進行だったわけがない。まだ小さい頃だったからわけもわからず見ていたが、主題歌が好きだったのと、間寛平が出ていたのは覚えている。たしか間寛平が逆さづりにされて「オタンコナス!」と敵を罵っていた。あと、渡部篤郎が女装して、死んだ恋人の撃たれた瞬間を踊りで演じる壮絶なシーンはトラウマのごとく目に焼き付いているが、原作にはそんなシーンはひとつもない。再放送でもしてくれないものか。特に、作中で震天風(演:ショー・コスギ)たちが薩摩軍と拳法で渡り合うシーンなどどうなっているのか知りたい。

 個人的には、とくに1巻で、平和な琉球王国に薩摩侵攻の予感が高まっていくところが、災害小説の導入のようで良かった。すべてを薙ぎ払う嵐が来るのを誰もが予感しながら誰もとめる術をもたないことへの、無力感と理不尽な運命への怒り、そして諦めきれぬ琉球人としての誇りが、淡々とした語りの中で強く迫ってくる。

購書記録2022/10/1

【最近買った本】

2022/10/1 千葉の某ブックオフにて。

 

奈良本辰也『風土の中の史実』(旺文社文庫

 奈良本辰也は読むと意外に面白いが、歴史読み物の量産作家というイメージで、死ぬ前にほとんど忘れ去られてしまった感じである。立命館大学で文学部長まで務めたのに学園紛争で学界を去るなど経歴がいろいろ気になる人で、そのあたりがわかる著作を探している。

 

『Jコミック作家ファイル・BEST145』(河出書房新社

 昔よく読んだ。1999年刊行だからバガボンドは3巻、風光るは4巻しか出ていない。145人の作家をとりあげて、評者には大谷能生斎藤環鶴岡法斎などの名前もみえるが、いずれも作品をマンガの歴史に位置づけようとするあまり、なんだか抽象的な評価ばかりで、マンガを読んでいないとさっぱり面白くないというものが多かった。

 

小松左京マガジン 第48巻』

 なぜかこれだけあった。これがあったら普通他の号もありそうなものだが。小松左京加藤秀俊の合作小説なるものが載っている。

 

長谷川裕一飛べ!イサミ ダッシュ1巻』(テレビコミックス)

 コミック版の続編、1巻だけ、汚いという状態だったが、懐かしくなって買ってみたら直後にアニメの配信がネットで始まった。見ようかな。

 

竹内均ムー大陸から来た日本人』(徳間書店

 プレートテクトニクスを日本に紹介しながらこういう本も書いている。

 

半村良『岬一郎の抵抗 1・2』(集英社文庫

 ある日突然超能力に目覚めた男が社会に巻き起こす騒動を描く、らしい。いずれ読みたいと思ってずっと先延ばしになっていたのを買ってみたが、3と4はいつ手に入るやら。

 

水田美意子『孤島ピエロの殺人同窓会』(宝島社)

 なつかしい。12歳のデビューということで話題になった。もちろんたいして面白くはなかったのだが、皆殺しにされそうな状況で自分がバカにされたことに怒って、主人公たちがなんとか助かろうとする努力をぜんぶ台無しにしてしまう人がいてそこがリアルだった。あと作中で何度も繰り返される「うら、むったまいと」という謎の言葉が、「タトゥー今村」という人名のアナグラムだったというのが最後に明かされるだけでストーリーにはなんの意味もなかったのが衝撃的だったのをいまだに覚えている。

 

他、計94冊。最近の新しい本をいち早く安く手に入れるより、昔読んだ懐かしいものを見つけるほうがうれしいというのは、年を取ったということか。

今邑彩『鋏の記憶』B、牧野修『ネクロダイバー 潜死能力者』B

【最近読んだ本】

今邑彩『鋏の記憶』(中公文庫、2012年、単行本1996年)B

 物に触れるだけで持ち主の情報を読み取ることができるという、サイコメトリー能力を持つ女子高校生が主人公の、ホラー風ミステリである。連作短編で4話収録である。

 最近の、ルールがやたら細かい、ゲーム性の高いミステリに比べると、設定はだいぶ緩い。触れただけで持ち主の細かい情報がわかるときもあれば、断片的にしかわからない場合もある。超能力を厳密に考えるというよりあくまで、事件の謎を解くヒントを、物語の進行に都合の良いように与えるだけである。むしろ物語の主眼は、サイコメトリーによって得られた情報が現実と食い違っているという問題をどう解くか、その能力で真実を明らかにすることで本当に人は幸せになるのか、といったところにある。

 どれも読みやすいしわかりやすいが、今邑彩だから、読後いやぁな感じを残す話も多い。とはいえ、なんとか希望を残そうという意志も感じられて、いやぁな感じと良い話を読んだ感じと、ふたつが混ざりあって変な読後感である。

 

牧野修『ネクロダイバー 潜死能力者』(角川ホラー文庫、2007年)B

 残酷な死を遂げた人間が悪霊となったのを、成仏させる特殊能力者の組織――といった感じの話を、人間それぞれに憑いているという「守護蟲」、人が死んだときに蟲がその人の物語を書き遺す「蟲文」、それを読み取って死の世界に潜入する能力をもつ戦士である「ネクロダイバー」といった設定を導入してアクションホラーSFというべきものに再構築している。

 死の世界がサイバースペースっぽいあたりは攻殻機動隊のホラー版を意図したものだろうか。いまだと呪術廻戦を連想する。公務員のような組織が悪霊に立ち向かう図式やそこに偶然で雇われるはみ出し者の主人公といった立ち位置は枚挙に暇がないが、本書もそのテンプレートの中で、ダメな主人公や残酷な犯罪者たちなどがぞくぞくと登場し、牧野修らしい、夜の闇のなかにずっといるような雰囲気の物語を展開している。

 牧野修といえば、アンモラルな価値観やテクノゴシックな世界観といった要素があげられるが(確かにそうなのだが)、一方でとてもまっとうな物語作法や倫理観が貫かれていて、堅実に始まり堅実に終わるところが、安心するところでもあり不満になることもある。ディックばりの現実崩壊がつづいてそのままほったらかしで終わってしまうような、そういう話も読んでみたい。

平山瑞穂『出ヤマト記』B、京極夏彦『ヒトごろし』B

【最近読んだ本】

平山瑞穂『出ヤマト記』(朝日新聞出版、2012年)B

 どう読めば良いのか、困る小説である。

 窮屈な日常に不満をもつ少女が、実の祖父がいるという北の楽園「ヘブン」を求めて旅をする、ディストピア小説といえなくもない。

 だがそう読むには露骨に、「ヘブン」にはかつてユートピアとされていた北朝鮮が意識されている。「トッキ」のようないくつかヒントとして出てくる単語も、調べてみると韓国語である。かといってこれは北朝鮮そのものかと言えばたぶんそうでもない。いくらこの主人公が子どもでも、私たちの時代に普通に生きていれば、北朝鮮に無邪気に憧れを抱くことはありえないだろう。だから、あえて言うなら北朝鮮への憧れが持続した架空の現代を描いた小説というところか。

 いまいち全体像がはっきりしないのは、基本的に世間を知らない少女の視点から亡命劇を描いているからでもある。彼女は何ものかの手引で北朝鮮に潜入は果たしたものの、ヘブンへと向かう電車に乗るのに失敗し、付近の森をさまよって行き倒れる。普通ならそのまま死ぬところを、偶然通りかかった少年兵に助けられ、小さな山小屋に潜伏する。その彷徨や、匿われる間の潜伏生活が小説全体の半分以上を占め、読者には断片的にしか情報は与えられない。なにもわからないまま話が4分の3を過ぎたあたりから、やや強引かつ急激に、SFかスパイ小説めいた説明がつけられ、意外なハッピーエンドを迎える。

 なぜこの小説が書かれたのか? それを考えるうえで、この小説が書かれた時期はとても微妙である。この小説が出版された2012年に先立つ2011年12月17日に、金正日が死亡している。小説内でも、金正日らしき人物の死が、今後の変動を予言する大事件として語られている。ということは、金正日の死亡を機に、北朝鮮が希望であった時代を知る著者が、ノスタルジーをこめて書いたものなのかというと、そうとも言い切れない。この小説の連載は、金正日の死ぬ前の『小説トリッパー』2011年夏季号から始まり、死後の2012年春季号で終わっている。金正日の死が近いという噂があって書き始めたのか? それともたまたま時期が一致したのか? そのあたりはぜひあとがきか何かで語ってもらいたかったものだが、とくだん明かす気はないようだ。本書が文庫化される様子も、今のところ、ない。

 この小説を読む限りでは、著者はどうも、金正日の死で北朝鮮に大変動がおこることを予感しているようにも見える。それは現実には外れ、トップの交替は意外にスムーズに終わった。2022年現在も北朝鮮はノスタルジーの対象ではなく存続している。本書をタイムリーな予言の書のつもりで書いたのか、他になにか意図があったのか、いつか知りたいものである。

 

京極夏彦『ヒトごろし』(新潮社、2018年)B

 土方歳三の生涯を描いた1000ページの長編。

 いくら京極といえども新選組小説でそうそう斬新なものが書けるわけはなく、新選組についてはある程度読者の了解を得たうえで少し違う視点を提出するという感じである。 

 本書の土方は終盤で自分を振り返った述懐の通りである。

 歳三は人殺しだ。人を殺めるのを好み、人を害することが止められない人外だ。だが、これまで人殺しでいるために歳三が払って来た代償は限りなく大きいのだ。

 歳三は人殺しでいるために、何もかもをかなぐり捨て、持てる限りの知と能を駆使し、命懸けで臨んで来た。人殺しは決して赦されない大罪であるということを、十二分に知っているからである。(p.1026)

 そのとおり、土方は、人を殺したいがためになんでもする。人を殺したいがために、合法的に人が殺せる武士になり、人を殺しながら生き続けるために、邪魔者を排除し、新選組を組織として成長させてもいく。幕府が瓦解したあとは、明治政府下では罪に問われ殺されるとわかり、榎本武揚蝦夷共和国に参加して戦いもする。そういう土方の行動を、志とも、哲学とも、闇とも、人々は勝手に判断して、土方とかかわっていく。沖田も、近藤も、山南も、伊東も、斎藤も――他いろいろな人が、土方を理解したつもりで、人を殺したいだけという土方の欲望を理解せずに消えていく。その果てに、土方自身もまた、蝦夷の地で死んでいくことになる。結局だれにも理解されず、しかし歴史に大きな足跡を残していった土方の生きざまは、読み終えるとさすがに圧倒される。最後まで土方を一方的に信じて慕う島田が哀れだった。

 意外に最近の新選組作品もおさえている感じで、殿内義雄や阿比留鋭三郎がちゃんと出てくるのは大河ドラマ新選組!』を、吉村貫一郎が出てくるのは浅田次郎の『壬生義士伝』を踏まえているのだろう。一方で沖田を暗い殺人狂としたり、芹沢鴨の死にざまをひどく情けないものにしたり、定型をはずすような描写も多数されている。特に沖田総司ファンがこの作品をどう捉えたかは気になるところだ。