DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

真保裕一『ホワイトアウト』B、陳舜臣『琉球の風 全3巻』B

【最近読んだ本】

真保裕一ホワイトアウト』(新潮文庫、1998年、単行本1995年)B

 山奥で雪に閉ざされたダムの発電所をテロリストが占拠し、電力と圧倒的な水量により麓の町を人質にとって政府に要求をつきつける。絶体絶命のその状況に、ただ一人彼らの目を逃れた職員が圧倒的な戦力差をくつがえして立ち向かうという、日本版ダイ・ハードとも呼べるスタンダードなシチュエーションのサスペンス小説。ちがうのは、雪山登山が大きなテーマとなるところである。ダムの発電所に勤める主人公は、雪山の遭難者救出の際に、自身のミスもあって親友を死なせてしまったことを心の傷にもっている。折あしくテロリストが占拠したダムには亡き親友の婚約者が訪れており、人質になってしまっている。彼女を助けるのが彼の大きな目的となるのである。

 テロリストとの闘いが、主人公にとっては雪山で親友を死なせたミスの挽回の物語にもなっている。社会全体の大問題が個人の人生に重ねあわされるという、ある意味で図式的ともいえる話である。だからこれは、サスペンス小説や冒険小説よりも登山小説の歴史につらなる小説といえなくもないし、ダムを這う虫のような主人公の行動の、すべてを図解できそうな圧倒的なディティールはダム小説としての風格も備えている。

 面白いことは面白いのだが、大傑作とはいかず、やや肩透かしの感がある。最初は、天才的で隙のないテロリストにたった一人の民間人が知力と体力の限りを尽くしてわたりあう話かと思っていたら、テロリストたちは意外に足並みがそろわず、なかば内輪もめで瓦解していく。そうでもなければ630ページ足らずにまとめるのは不可能だっただろうし、とても銃をもった一般人ひとり程度では勝てなかっただろうが、それにしてもストーリーが進むにつれて犯人側がどんどん馬脚をあらわしていくのはちょっとつまらない。なにより、捕虜にした女性を料理係として使う官能小説まがいの発想もいまとなっては恥ずかしいくらいである。その油断がテロリストにとっては思わぬ伏兵になってしまうあたりも読んでいて情けない。そのあたりが鼻についてくると、リーダーの思惑が明らかになるあたりの一種の叙述トリックも小賢しいものに思えてしまうのである。

 それでも、雪山の寒さが伝わってくるような細部までこだわった描写は、他の追随を許さない。舞台というものはこう創るのだという気迫が伝わってきて、いまでも十分に読む価値はある。しかしやっぱりお話としてははちょっと、というのがつらいところ。

 かつて福田和也が『作家の値打ち』で「よく調べているものの面白くない」と否定的に評していたが、こういうことだったかとちょっと納得した。

 

陳舜臣琉球の風 全3巻』(講談社文庫、1995年、単行本1992年)B

 時は17世紀はじめ、琉球王国薩摩藩の侵攻という危機に直面していた。関ヶ原の敗戦で大きな打撃を受けた薩摩藩は、琉球支配下において明との交易による利益を奪い取ろうとしていたのである。

 争いを避けたい尚寧王や側近の謝名親方たち首脳部は、早くからその襲来を察知していた。彼らは部下を動かして、明に支援を求めたり、薩摩に内乱を起こさせようとしたりと諜報戦を繰り広げるが、どれも失敗する。彼らは抗戦を諦め、薩摩の支配のもとでなんとか琉球王国を存続させようと画策する。

 関ヶ原の戦いが終わり、徳川家康豊臣秀頼が次の戦いに向け不穏な動きを見せるなかで、遠い琉球ではこんなことが起こっていたという事実が興味を引く。幕末の小説なんか読むと、西郷吉之助が奄美大島沖永良部島に流刑になっていて、薩摩藩の辺境みたいになっているが、この当時はれっきとした琉球王国の一部だったわけである。幕末においては、辺境から幕府に食い込もうとする薩摩藩、そして薩摩藩による迫害を乗り越えて明治という世をつくる吉之助という構図の中で、実は吉之助もまた迫害者の一端をになっている。そういう歴史を果たして西郷は知っていたのかいないのか、とにかく日本の歴史を別の角度から見られるのは新鮮である。

 それ自体は非常に勉強になるが、どうも繰り広げられるスパイ戦が高度に過ぎて、読んでいてどこまで本当なのか疑ってしまう。薩摩に舐められないよう、形式的に抵抗してから最小限の犠牲で戦略的に降伏したことになっているが、有効な手を打つ暇もなく侵攻されたというのが実情なのではないか。物語の中では、薩摩を受け入れた上でゲリラ的な抵抗をするようなことを言っていたものの、そのリーダーになるべき拳法家・震天風が戦いで傷を負って死んでからは、そういった話はなくなり、後半では琉球王国は背景にしりぞいてしまう。真田幸村接触してきて大阪の陣の残党を引きとるような話もあるのだが、それも特に話としてふくらむ様子もない。もしかして真田幸村豊臣秀頼琉球王国残党の頭領として迎えられる展開もあるのかと、一瞬期待したのだが。

 後半は、生き残った主人公の啓泰が、明の打倒を目指す組織と組んで、商業ネットワークによる「南海王国」の創立を目指す物語になっていく。3巻では啓泰もあまり出てこなくなり、話はアジア全域に広がり、明滅亡から清の建国、そしてヨーロッパも介入する雄大な世界史が駆け足で語られ、物語は若き鄭成功に受け継がれていく。だからこれは、陳舜臣の代表作である『鄭成功 旋風に告げよ』(1977)の前史ということにもなる。

 大河ドラマはこれを原作としつつも、もっとドラマティックになっていたはずで、後半はまったくの別物だろう。こんな世界史のダイジェストのような進行だったわけがない。まだ小さい頃だったからわけもわからず見ていたが、主題歌が好きだったのと、間寛平が出ていたのは覚えている。たしか間寛平が逆さづりにされて「オタンコナス!」と敵を罵っていた。あと、渡部篤郎が女装して、死んだ恋人の撃たれた瞬間を踊りで演じる壮絶なシーンはトラウマのごとく目に焼き付いているが、原作にはそんなシーンはひとつもない。再放送でもしてくれないものか。特に、作中で震天風(演:ショー・コスギ)たちが薩摩軍と拳法で渡り合うシーンなどどうなっているのか知りたい。

 個人的には、とくに1巻で、平和な琉球王国に薩摩侵攻の予感が高まっていくところが、災害小説の導入のようで良かった。すべてを薙ぎ払う嵐が来るのを誰もが予感しながら誰もとめる術をもたないことへの、無力感と理不尽な運命への怒り、そして諦めきれぬ琉球人としての誇りが、淡々とした語りの中で強く迫ってくる。