DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

三岸好太郎について

最近ずっと、画家・三岸好太郎の詩が気になっている。

「飛ぶ蝶」
窓からひらひらと飛んできた蝶は/呼吸しない白い壁に足をとめた/蝶の冬眠が始まる/
しかし押えられたピンをはねのけて再び飛び立つことは自由だ


詩自体は、「蝶と貝殻(視覚詩)」というもっと長い詩の一節であるが、
絵のテーマを明示しているという解釈から、並べて示されることが多い。


この詩を僕が気にいった理由は、さまざまに考えられる。
たとえば、自分の意志で飛んできたはずの蝶が、後半でいつのまにか標本にされていたことへの不条理な恐怖。
不安定な蝶と強固な壁の対比、さらにそこからの離脱への強い意志という要素の衝突によってもたらされる、孤高を貫くはかない蝶のイメージ。
シュルレアリスムの影響下の、強烈な、しかしどこか矛盾した映像。



ただ、自分にとって重要なこととして、
僕がこの詩を知ったのは、松岡圭祐原作のTVドラマ「催眠」(稲垣吾郎主演)で、重要なモチーフとなっていたから、というのがある。
しかしそのときには、どうせ脚本家あたりが勝手にでっち上げたモノだろうと思い、
ドラマ自体あまり面白くなかったこともあってか、何とも思わなかったのである。
その後ふと調べてみて、絵と詩を描いた三岸の、31年の短い、しかし波乱に満ちた生涯を知るとともに、
詩が実は元々、ひらがなではなくカタカナで書かれていたことを発見した。

窓カラヒラヒラト飛ンデキタ蝶ハ/呼吸シナイ白イ壁ニ足ヲトメタ/蝶ノ冬眠ガ始マル/
而シ押エラレタピンヲハネノケテ再ビ飛ビ立ツコトハ自由ダ

この詩が僕にとって忘れがたい印象を与えたのは、そのときである。


では今の自分は詩の何に惹かれているのか、というのが、よくわからない。
単純に詩の内容に惹かれているのか、
31歳で夭逝した「悲劇の」画家の作品だから、蝶の姿に三岸を重ねあわせて惹かれているという、ごくごくミーハーなものなのか。


しかしこの詩に衝撃を受けたのはカタカナのバージョンを見た瞬間であり、
カタカナにすることにより生まれる無機的で清潔なイメージこそが、
僕の感じている魅力の源泉であるような気もする。
実際、ドラマ中での稲垣吾郎の朗読を聞いても、僕にはいまいちピンと来ない。
カタカナで書かれた状態で読むからこそ、この詩は僕に強烈な魅力を感じさせている。


しかし、僕にとってはカタカナであることこそがこの詩の感動の本質である、というのは、いかにも奇妙な話である。
ここでは内容や自身が今まで経てきた来歴よりも、その形式こそが感動を与える最も重要な要因になってしまっているわけで、
これは同じ内容の本でもどのような形式で与えられるかによって、僕にとっては経験の質が大きく異なってしまうことを意味する。
そうした形式の違いといえば、「カタカナ/ひらがな」以外にも「旧字体新字体」、「文庫/単行本」、「雑誌掲載/単著」などいろいろと考えられるわけだが、
そのうち、どの形式を選ぶかで僕が本に得る印象、その読書体験が人生に与える影響がまったく違う可能性があるのだ。
(しかしそれで今の僕が悩むのは、埴谷雄高の「死霊」は新字体の文庫版で読んでいいのか、
旧字体の旧版「死靈」にすべきか、というようなまことにクダラナイことだったりするわけだが)


結局のところ、この話って最近聞いた「物語環境」のくりかえしでしかないのか、と、ここまで来て気付いたが、
こんなことを考えつつ今手元にあるドストエフスキー「悪霊(上)」(江川卓訳、新潮文庫)を見ると、
今このとき、僕がこの訳、この文庫でこの作品を読むというのは、
いったい僕にとってどういうことなのだろう、と、
少しうそ寒いような、めんどくさいような気分になるのだった。

ぷろふぃーる:
三岸好太郎(1903-1934)
戦前のモダニズムを代表する画家の一人。時代小説家の子母澤寛は異父兄である。
自身を「カメレオン主義」と評したように、31年の短い生涯の間にさまざまにモチーフや作風を変化させ、
西洋絵画から東洋趣味、道化、抽象画、シュルレアリスムなど、200点あまりの作品を遺した。