DEEP FOREST/幻影の構成

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 津村節子の『葬女(とむらいめ)』(集英社文庫)を読んだ。

葬女 (集英社文庫 青 61-A)

葬女 (集英社文庫 青 61-A)

 タイトルは、葬儀屋の女主人の意味である。彼女が葬儀をつとめるなかで出会った五つの「死」を描く連作集。
 ある種ミステリ的な構成となっていて、まずある人物の葬式が、彼女の視点から描かれる。その過程で適度に謎が提示されてから、彼女の知りえない、その人の死の顛末が語られる。エピローグから語られ、最後に読み返すと余韻が残る形になっている。こうした「死」が極端に強調されるシチュエーションは、夫の吉村昭も「星への旅」(集団自殺)や「少女架刑」(人体解剖)など多数書いているものであり、お互いがどう考えていたのか気になるところである。
 解説の進藤純孝は、本作品に「やさしさ」を見出している。死を迎える人々の立場から物語を描くという、対象への寄り添い方をそう評しているのだと思うが、個人的には別のテーマを指摘したい。それは、「理解不能な若者」である。
 五つの作品のすべてに若者が登場する。彼らは一様に、周囲からは不可解な存在として描かれている。たとえば「星くず」の少女は、ある家に住み込みで働いているが(筒井康隆家族八景』のようだ)、仕事のきつさに耐えかねて家出し、一緒に連れ出した家の赤ん坊を不注意で死なせてしまう。彼女は赤ん坊の死体を森に埋めて逃走する。世間的には猟奇事件なのだが、しかし少女の立場からしてみれば、それはおおごとではなく、「ちょっとへまをやってしまった」程度の慌て方しかしない。赤ん坊の死体を森に埋めてしまった後は、もうすべて解決したように解放感に浸っている。
 不可解な若者を、若者の内面から描きだすことで、彼らにも彼らの論理があるということを示す。「鈍色の青春」の、両親の借金返済のために青春もなく働きづめで事故死する青年、「二人だけの旅」で養護施設に子ども服を寄付した後自殺する姉妹、「北の海」で娘に彼女の家庭教師との不倫を知られて自殺する母親、「宵寒」で下宿先の未亡人に世話されて寂しく死ぬ青年――いずれも最後まで理解しがたいものを残しながら、どこかに共感を覚えさせる。それは進藤純孝のいう「やさしさ」でもあり、この内容でサイコサスペンスにならない所以でもあるだろうが、そうして描くには、彼らを厳しく対象化する視線も不可欠である。
 「理解不能な若者」というテーマは、戦後文学の大きなテーマの一つである。たとえば津村(1928 - )と同世代の結城昌治(1927 - 1996)は、戦前世代と戦後世代の決定的な断絶を『罠の中』などで描いていた*1。締めくくりとして本作品の最後に描かれる、葬儀屋女主人による従業員の若者への恋――それは成就するのか、彼らが幸せになるかはわからないまま終わってしまうが、ともかくもその「壁」を乗り越える可能性を示すものである。孤独な死を描いてきて、最後に人と繋がりあう生が可能性として描かれる。本作の美しさはそこにある。

*1:ネタバレである