DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

 高橋和巳『捨子物語』(河出文庫、1996年)を読んだ。

 第一回文藝賞受賞作『悲の器』(1962年)に先立ち、1958年に足立書房より自費出版され、1968年に河出書房新社より再刊された、真の処女作である。
 呪術的・神話的な空気に満ちた、マジックリアリズムとも称されそうな現代伝奇小説である。大阪が舞台なのだが、戦時中という「非日常」の日常、そして戦後すぐに地盤沈下で海に没した貧民街という設定が、非現実的な場をつくりだしている。
 物語は戦前、貧民街にある夫婦が住みだしたころから始まる。駆け落ちしてきた二人は、悪意の澱むこの街で必死に助け合って生きていくが、いつしか希望は絶望に代わっていった。そして妻がその身に子供を宿したとき、彼らはもはや無感動にその事態を受け入れるしかなかった。そんな彼らを祈禱師が訪れ、予言を授ける。

「生まれる子は本当は女に生れなければならない。しかし、不幸にも形だけは男に生れるだろう。子供のうちは、別段なんの変ったこともないかもしれない。しかし、そのまま育てれば子供はきっと不幸になる。なぜ不幸になるかは想像できましょう。異性を愛する力もなく、同性の友情に答える方法は知らないだろうから。ひたすら愛されんことを望み、なんのとり柄もなく、子供は屈辱にまみれ、無為のうちに沈み、我と我が身を犯す無益な夢のはてに、息絶えるだろう。可哀そうだけれども、これもなにかの因縁です。あなた方親となる者の心の内にじっと反省してみれば、なにか思いあたる節がありましょう」(略)
「しかし、方法がまったくないわけではありません。生れてちょうど三月目に、その子を北の方の四つ辻に捨てなさい。だれか他の人の乳房で育ててもらえばいいのです。拾ってくださる人が慈悲深ければ、人並の人生も送れましょう」
「しかしなお」と予言者はつづけた。「その子はたとえ人さまの慈悲によって尋常の成長をとげえても、与えられた不運なその性格は、血みどろな闘いによってすらもほとんど改められないかもしれませぬ。身も心も貧しいがゆえに、彼はたえず空しく憧れ、空しく渇望し、しかもみずからをしか愛し得ぬ二重性のゆえに、つねに豊饒を取り逃さねばならないでありましょう。彼はいつも独りぼっちで生きねばならないだろう。だれが育てるにせよ、彼はその生のはじめにおいて、すでにひとたび見棄てられねばならないのであるから。救われて猶予された生を、長い別離の儀式のように生きながら、辛うじて幻想のなかに憩を見出しつつ歩まねばならぬ。その子はなにびととも真の関係を結び得ぬように生れついたのだから。みずから以外のなにびとをも、彼は愛さないのであるから。その子は次々と頼る人をかえるであろう。一人を頼っては一人を裏切り、一人に媚びては一人を憎む。そして成長してより後は、またみずからを頼れるに足るものに見せかけようとも努めるであろう。微笑し受け入れ、おびき寄せ舌なめずりする。しかし、結局はみな彼を去っていくだろう。もっとも親身に頼りうる骨肉を見失い、また彼にはつくれもしないのであるから。形は男に生れても、肉には毅き性はないのであるから。古人の言いたもう。幼くして親なきを孤と言い、老いて子なきを独と言うと」
 予言者は呪文を唱えると、沈鬱な笑い声をのこして去った。

 これ自体が一つの叙事詩のような予言である。両親はこれに従って生まれた赤ん坊を棄てる。祈禱師は別に本当に予言を信じて言ったのではなく、それにより金がもらえるがゆえの口上であった。しかし予言は実行されてしまい、奇蹟的に彼は拾われ、物語の主人公となる。
 これはある程度自伝的な背景をもっている。高橋和巳の家は天理教の熱心な信者で、彼が生まれた時は風習に従い、子供を一旦「捨てて」、また「拾ってくる」という儀式をしたのだとか。それゆえに彼は、自分は捨てられた子供なのだという「物語」を妻のたか子にもよく語っていたという。それが虚構でしかないことを、彼は十分承知していたのは、引用した予言をあくまで虚構として描いていることからも明らかであろう。虚構としての予言が、それを授けられた人間の人生を支配する、というのは、もっと露骨なものが浅田次郎の中国史ものにあるが、本作の場合、それがどの程度の影響を及ぼしたのかははっきり示されない。物語は主に小学生時代の彼の生を描いて終わり、冒頭、死の床にある主人公へと戻っていく。予言の主たる期間は描かれない。
 物語は、彼と、集団におさまらず奇矯な行動をとり続ける姉と、幼いながら時折蠱惑的な魅力をみせる妹――もちろん姉と妹はその家の子である――の三人を中心に、やや散漫に、断章的に進んでいく。あまり物語の統一性はなく、猫を拾ってきたときのことや、級友たちとの交流、教師との軋轢といったエピソードがつづられていくのだが、それらはいずれも、ふとしたところから、ほとんど宗教的な啓示空間や、性の極北、虚無の深淵というべきものを見出していく。少年少女の日常があたかも神話的な空間を現出させて見せるというのは、なにも珍しいものではないが、高橋和巳もこういったものを処女作に書いていたというのは驚くべきことである。知識人の苦悩を重苦しい雰囲気の中に描いた作品の多い彼であるが、晩年の大作『邪宗門』への道はすでに処女作に見出せるといって良い。
 断片的な物語の末、姉は出奔し行方不明となり、父は満洲に行って戻らず、残された一家を祝祭のごとき大空襲が襲う。狂気をみせだしていた母は避難を拒否して家もろとも焼死し、焦土の中に主人公と幼い妹が生き残る。二人は飢餓と疫病に苦しみながら、『火垂るの墓』のように死を待つばかりとなるが、妹の死の直後、主人公は見知らぬ男に拾われ、新たな生を得ることになる。それが少年期の終わりであり、予言された日の本当の始まりでもあった。それが高橋和巳の生へとつながるものであったのか、それは本人にもわからないことである。